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最明寺は、1262年(弘長2年)に北条時頼が創建したと伝わる寺院。 七堂伽藍を備えた寺は興隆したが、度重なる戦火により悉く焼失。 その後、喜多院の末寺となり、1787年(天明7年)に復興された。 現在の本堂は、1973年(昭和53年)の再建。 本尊は阿弥陀如来。 |
伝承によると・・・ 1256年(康元元年)11月、五代執権北条時頼は、病気のため執権職を辞して鎌倉の最明寺で出家。 以後、最明寺入道と呼ばれた時頼は、病気が治ると諸国行脚の旅に出た。 その旅で草庵に暮らす老僧に出会う。 この老僧は、鎌倉幕府二代将軍源頼家の次男千寿丸で、1204年(元久元年)、頼家が伊豆の修禅寺で暗殺された後、出家して瑶光房道円と名を改め、河越の地で暮らしていたのだという。 時頼は、その貧乏な暮らしを気の毒に思い、鎌倉へ帰った後、金壱百五拾貫を寄付して寺を建てた。 その寺が瑶光山最明寺。 |
源頼家は、1203年(建仁3年)の比企能員の変で失脚。 伊豆の修禅寺に幽閉され、翌年、暗殺された。 |
北条時頼廻国伝説 母松下禅尼の教え「質素倹約」・・・北条時頼 |
1213年(建暦3年)、信濃源氏の泉親衡は、二代将軍源頼家の遺児千寿丸を担ぎあげて打倒北条義時を企てたが失敗。 最明寺の伝承では、千寿丸は泉親衡とともに河越の地に落ち延びて出家し「瑶光房道円」を名乗ったのだという。 |
横浜市泉区の泉中央公園一帯は、泉親衡の館跡と伝えられ、1212年(建暦2年)に北条義時を討つために築いたのだと伝えられる。 1213年(建暦3年)に親衡の起こした反乱は、同年5月の和田義盛の挙兵へと繋がっていく(和田合戦)。 |
『吾妻鏡』は・・・ 1213年(建暦3年)2月、泉親衡の謀反の企てに利用された千寿丸は、同年11月10日、北条政子の命により出家。 1214年(建保2年)、京都に潜んでいた和田の残党に擁立され、六波羅を襲撃しようと企てたが、計画が露見し、11月13日、大江広元の在京の家人に一条北辺りの旅亭を襲撃されて自刃したのだと伝えている。 |
※ | 千寿丸は、壽福寺の栄西の弟子となって栄実と名乗っていたのだという。 |
※ | 一条北辺りの旅亭とは、仁和寺のことらしい。 |
断絶した頼朝の血筋 |
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