|
和田合戦は、1213年(建暦3年)5月に鎌倉幕府の有力御家人で侍所の別当だった和田義盛が起こした反乱。 発端は2月に起こった泉親衡の謀反。 この事件で義盛の甥胤長が処罰されたことで、義盛と北条義時との関係が悪化。 義盛は同族の三浦義村や横山氏を味方につけて北条氏打倒を企てるが・・・ 三浦義村に裏切られるなど兵力不足の義盛は、源実朝を擁して兵を集めた北条義時に敗れて滅亡した。 |
和田義盛は、三浦義明の孫。 三浦半島の和田の地を領していたことから和田を名乗った。 『吾妻鏡』 によると、晩年の義盛は上総国伊北庄を拠点としていたと考えられ、上総国司(上総介)の任官を望んでいたのだという。 |
上総介の任官を望んでいた和田義盛 |
『吾妻鏡』によると、信濃国の泉親衡は、1211年(建暦元年)から二代将軍源頼家の遺児千寿丸を擁立し、北条義時を討とうと企てていたのだという。 阿静房安念という僧を使って協力者を集めていたが、1213年(建暦3年)2月15日、千葉成胤が安念を捕らえたことで、事が明るみに出た。 加担した者の中には、和田義盛の子の義直、義重、甥の胤長などもおり、2月16日には一網打尽にされている(計画の首謀者は130人、その一味は200人に及んだ。)。 親衡は、3月2日、筋違橋に隠れていたところを襲われたが、どこかへ逃亡し、行方不明となったのだという。 その頃、上総国伊北庄にいた和田義盛は、3月8日鎌倉に戻り、将軍源実朝と北条義時に嘆願をした結果、これまでの忠勤から子の義直、義重は宥された。 翌日、義盛は、一族98人を引き連れて御所を訪れ、甥胤長の宥免を嘆願したが認められず、縛られたままの胤長は二階堂行村に引き渡され、義盛は大いに面目を潰された形となった。 これが、義盛に対する義時の挑発のはじまりだった。 胤長は、陸奥に配流となり、屋敷は没収された。 |
泉中央公園付近一帯は、泉親衡が北条義時打倒のために築いた館跡と伝えられている。 周辺には、長福寺・須賀神社・神明社・滝前不動尊・宝心寺といった親衡ゆかりの寺社がある。 |
京都の祗園祭の「前祭巡行」の先頭を行く長刀鉾。 鉾先の長刀の下に飾られているのは、和泉小次郎親衡の像。 |
泉親衡の謀反で捕えられた渋川兼守は、荏柄天神社に和歌を奉納して源実朝に許されたのだという。 鎌倉十橋の歌ノ橋は、兼守がお礼に架けたのだと伝えられている。 |
泉親衡の乱から和田義盛の挙兵まで〜和田合戦『吾妻鏡』〜 京都祇園祭の長刀鉾と泉親衡 |
和田胤長の屋敷は、御所の東、荏柄天神社の前にあったとされている。 3月25日、和田義盛が将軍実朝に願い出た結果、「罪人の屋敷はその親族に下げ渡される」という慣例に基づき、義盛に与えられた。 義盛は代官の久野谷弥太郎を住まわせている。 しかし、4月2日、北条義時は、久野谷弥太郎を追い出し、金窪兵衛尉行親と忠家に与えてしまったのである。 |
あいつぐ挑発に怒りを抑えきれなくなった和田義盛は、とうとう合戦の決意をする。 北条義時に不満を持つ御家人は多く、義盛の一族三浦義村は起請文まで書いて味方することを約束した。 武蔵国の横山党も義盛への味方を約束している。 1213年(建暦3年)5月2日、義盛は北条義時打倒の兵を挙げた。 ところが、三浦義村は義盛を裏切り、義盛の挙兵を義時に伝えた。 横山党の到着も遅れている中、義盛は自軍を三手に分け、それぞれ義時邸、大倉御所、大江広元邸を襲撃させた。 将軍御所を攻められた源実朝は法華堂に避難している。 この時の和田軍は、総勢150騎あまりだったという。 義盛の三男朝比奈義秀の活躍もあって、和田勢は大いに奮戦したが、次第に北条軍に押され由比ヶ浜に退くこととなる。 翌早朝、頼みの横山党3000騎が合流したことによって一時盛り返すものの、次々に新手を繰り出す北条軍の前に疲弊し、義盛の子義直が討ち取られた。 再び由比ヶ浜に退いた義盛は、江戸義範の軍に討たれて最期を遂げている。 |
義盛に加担した横山党は、武蔵国の横山荘を本拠として武蔵国・相模国を割拠した武士団。 和田義盛の妻は、総帥の時兼の叔母にあたる。 八幡八雲神社は横山氏の館跡に鎮座。 |
由比ヶ浜にある和田塚は、1213年(建暦3年)に起こった和田合戦の戦死者を葬った所と伝えられている。 |
来福寺は、鎌倉の名越に創建されたという義盛の菩提寺。 |
『吾妻鏡』が伝える和田合戦 挙兵を早めた和田義盛 (三浦義村の裏切りで計画が狂った和田合戦) |
和田合戦で最もその名を轟かせたのは、和田義盛の三男朝比奈三郎義秀。 御所では次々に幕府兵士を斬り倒し、足利義氏との戦いでは、逃げる義氏の鎧を引きちぎったともいわれている。 若宮大路に架かる鎌倉十橋の一つ琵琶橋付近では、宍戸家政と戦って討ち取っている。 『吾妻鏡』では、合戦後、義秀は安房国へ逃れたとされているが、その後の行方は不明。 朝鮮へ逃れたという説もある。 |
朝夷奈切通 (鎌倉七口) |
瑜伽洞 (横浜市栄区) |
鎌倉七口の一つ朝夷奈切通は、義秀が一夜にして切り開いたという伝説の古道。 瑜伽洞(ゆがどう)は、和田合戦で敗れた義秀が逃げ込んだといわれる洞窟。 |
義秀の母は巴御前ともいわれる。 |
三浦義村は、一族の和田義盛を裏切ったことにより、のちに千葉胤綱から「三浦の犬は友をも食らう」と言われた。 『古今著聞集』によれば、将軍御所で胤綱が義村の上座に座ったところ、「下総の犬めは寝場所を知らぬな」と言われたことに対して胤綱がこう切り返したのだと伝えられている。 |
畠山重忠の乱で、重忠を射倒してその首をあげた弓の名手で横山党出身の愛甲三郎季隆、源頼朝の御所造営等で活躍した大庭景義の子景兼は、和田義盛に味方し一族ともに滅んだ。 |
『吾妻鏡』では、大きな事件が起こる前には、何かが起きている。 1210年(承元4年)11月21日、駿河国の建穂寺の鎮守・馬鳴大明神が子供の口を借りて、酉年(1213年)に戦があると予告したのだという。 大江広元が占うかを源実朝に諮ると、実朝もその日に夢のお告げを受けていたのだという。 |
上総介の任官を望んでいた和田義盛 泉親衡の乱から和田義盛の挙兵まで〜和田合戦『吾妻鏡』〜 挙兵を早めた和田義盛 (三浦義村の裏切りで計画が狂った和田合戦) 『吾妻鏡』が伝える和田合戦 土屋義清は鶴岡八幡宮の神矢に討たれた! 和田合戦の先陣を言い争った波多野忠綱と三浦義村 和田合戦で活躍した日光山の弁覚〜源実朝の護持僧〜 和田合戦の褒賞を固辞した北条泰時 |
北条義時は、和田義盛を滅ぼしたことにより、政所の別当とともに侍所の別当をも兼ねることとなる。 これにより北条執権体制が確立された。 泉親衡に利用された二代将軍頼家の遺児千手丸は、北条政子のとりなしによって出家するが、1214年(建保2年)、京都に潜んでいた和田の残党に再び擁立され、六波羅を襲撃しようと企てたが、11月13日、大江広元の在京の家人に一条北辺りの旅亭を襲撃されて自刃したのだと伝えられている。 和田胤長は、和田合戦後の5月9日、配所の陸奥国岩瀬郡で処刑された。 |
最明寺の伝承では、打倒北条義時に失敗した泉親衡は、千寿丸とともに河越の地に落ち延びて出家。 親衡は静海と名乗り、1265年(文永2年)5月19日に死去。 千寿丸は道円と名乗り、のちに北条時頼から寺を寄進されたのだという。 |
源氏の繁栄・衰退・再興・滅亡 和田合戦〜北条義時の徴発と三浦義村の裏切り〜 |
|