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鎌倉時代には、鶴岡八幡宮の前の浜という意味から「前浜」と呼ばれていた由比ヶ浜。 稲村ヶ崎から飯島岬(参考:和賀江島)までの海岸の総称だが、現在では、稲瀬川河口から滑川河口までの間を「由比ヶ浜」と呼んでいる。 「由比」の名は、共同作業を意味する「ユイ」が語源とされている。 |
「ま愛しみさ寝にわは行くかまくらの美奈能瀬河に潮満つなむか」 「美奈能瀬河」が稲瀬川のことだといわれている。 |
鎌倉時代の由比ヶ浜は、流鏑馬・小笠縣(こがさがけ)・犬追物(いぬおうもの)などの武芸の修練場でもあった。 源頼朝が放生会を行い、源実朝が渡宋を願って陳和卿に船を造らせた。 伊豆・箱根の二所詣の際には、沐浴で身を清める「二所精進」が行われたのも由比ヶ浜だった。 |
1187年(文治3年)8月15日、鶴岡八幡宮の放生会(現在の例大祭)を始めた源頼朝は、由比ヶ浜で千羽鶴の放生を行ったのだとか・・・ 上の絵は、江戸時代後期の浮世絵師・雪嶠の作品で、頼朝の鶴の放生の様子を描いたもの(藤沢浮世絵館HPより)。 |
小坪・衣笠合戦 |
1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵に従うため衣笠城を出発した三浦軍は、折からの雨で石橋山の戦いに間に合わなかった。 その帰路、由比ヶ浜で畠山重忠軍と遭遇し、合戦となってしまう。 この合戦がきっかけで衣笠城が攻められ、三浦大介義明が討死する。 |
畠山重忠の乱 |
1205年(元久2年)、北条時政の策謀によって、畠山重忠の嫡男重保が三浦義村に討たれた。 |
和 田 合 戦 |
1213年(建暦3年)、北条義時に挑発された和田義盛が挙兵し、由比ヶ浜で最期を遂げた。 |
1186年(文治元年)、源義経の愛妾静御前は、鶴岡八幡宮で舞を披露した。 その後、義経の子を産んだが、男の子であったため、由比ヶ浜に捨てられた。 |
母と子との悲しい運命~源義経の子を産んだ静御前~ |
1959年(昭和34年)から始まった「鎌倉まつり」は、「いざ鎌倉の武者行列」が原点。 由比ヶ浜からスタートした隊列は2キロにもなったのだとか。 |
鎌倉の海、特に由比ヶ浜の海は、明治17年、医学者長与専斎によって「海水浴に最適の地」とされて称されて以来、「海の銀座」といわれるほどの賑わいをみせている。 「鎌倉花火大会」は夏の風物詩。 |
海水浴場開場 100年碑 |
長与専斎碑 (高徳院(鎌倉大仏)) |
長与専斎は、内務省衛生局の初代局長を務め、明治20年、由比ヶ浜の松林にサナトリウム「海浜院」を開設した(1945年(昭和20年)に焼失)。 |
夏目漱石は『こころ』の中で夏の由比ヶ浜の賑わいをこう描いている。 「古いくすぶり返った藁葺の間を通り抜けて磯へおりると、この辺にこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。 ある時は海の中が銭湯のように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。 そのなかに知った人を一人ももたない私も、こういうにぎやかな景色の中につつまれて、砂の上に寝そべってみたり、膝頭を波に打たして、そこいらをはね回るのは愉快であった」 |
タンコロ |
鎌倉海浜院 |
ビーチフェスタ (5月) |
海開き (7月上旬) |
ハマヒルガオ |
ハマダイコン |
昔は、この鳥居の前から砂浜だったため、由比ヶ浜の砂丘と呼ばれていた。 |
由比ヶ浜、材木座、坂ノ下、七里ヶ浜、腰越の5つの海岸。 |
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