鎌倉手帳(寺社散策)

流鏑馬神事
〜鶴岡八幡宮〜

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流鏑馬


 流鏑馬は、疾走する馬上から鏑矢を放ち的を射る弓術の一つ。

 古くは「騎射」と呼ばれ、京都の葵祭(賀茂祭)の前儀として行われる流鏑馬も明治初年までは「騎射」と呼ばれていた。

 騎射は、『続日本記』に「698年(文武天皇2年)の賀茂祭の日に民衆を集めての騎射を禁ず」という記録があるように古くから行われていた儀式。

 馬を馳せながら矢を射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったといわれる。


〜弓馬の礼〜

 896年(寛平8年)、源能有(よしあり:文徳天皇の皇子)が宇多天皇の命により「弓馬の礼」を制定し、以後、弓馬の技術は、清和源氏の始祖六孫王経基に伝承され、清和源氏が相伝するようになったといわれている(能有の弟は清和天皇)。

 『中右記』には「流鏑馬」の記事が登場し、1096年(永長元年)に鳥羽上皇が糺の森の流鏑馬を観覧した記録が残されている。

 このころは、まだ朝廷の遊興として行われていた流鏑馬だが、武家が台頭してくると祭礼行事の中核に位置付けられ、神事として発展し、武家社会の確立に大きな役割を果たしていく。


〜鶴岡八幡宮の流鏑馬〜
(発展・衰退・廃絶)

 鶴岡八幡宮の流鏑馬は、1187年(文治3年)8月15日、源頼朝が放生会の後に奉納したのがそのはじまり。

 その目的は御家人結集、軍事力結集だったといわれ、放生会の流鏑馬は、御家人たちがその技量を競い合う場となり、大いに盛り上がったのだと伝えられている。

 そして、頼朝が鶴岡八幡宮で奉納した以降は、神事の武技として各地で奉納されるようになっていく。

 『吾妻鏡』によると、鶴岡八幡宮では八代執権北条時宗の時代までに、47回の流鏑馬が奉納されている。

 ただ、北条氏の時代になると、摂家将軍・親王将軍を迎えるようになり、流鏑馬が権力誇示の行事へと変化し、それにより、放生会供奉を辞退する御家人も増え、次第に流鏑馬は衰退していったのだという。

 頼朝鶴岡八幡宮に奉納したことで盛んに行われた各地の流鏑馬も、鎌倉幕府の衰退とともにすたれ、南北朝期には行われなくなった。

 後に、江戸幕府6代将軍徳川吉宗が小笠原常春に復興させ、徐々に行われるようになったのだという。



流鏑馬馬場
リンクボタン流鏑馬馬場

 流鏑馬は、直線140間(約250m)の流鏑馬馬場に的を3個並べて騎乗して的を射る。

 馬場に設けられた柵は「埒」(らち)と呼ばれ、的側が「男埒」(おらち)、反対側が「女埒」(めらち)で、男埒の方が高く設置される。

 ここが御家人たちが在所の祭礼などで奉納し、磨き上げてきた射芸を披露(力を誇示)した場。



リンクボタン弓馬四天王
(小笠原長清・武田信光・
海野幸氏・望月重隆)

リンクボタン西行と流鏑馬
(1186年(文治2年))

リンクボタン流鏑馬と熊谷直実の逸話
(1187年(文治3年))

リンクボタン流鏑馬と諏訪盛澄の逸話
(1187年(文治3年))

リンクボタン流鏑馬と河村義秀の逸話
(1190年(建久元年))



流鏑馬像・富士本宮浅間大社
流鏑馬像
リンクボタン富士山本宮浅間大社

 富士山本宮浅間大社に伝えられる「流鏑馬」は、1193年(建久4年)、源頼朝富士裾野の巻狩りを催した際に奉納したことを起源としているという。







流鏑馬騎射
リンクボタン小笠原流
(例大祭)

 小笠原流「流鏑馬」は、鶴岡八幡宮例大祭の最終日(9月16日)に奉納されます(午後1時)。

 ※10月の崇敬者大祭でも奉納されます(2019年の大祭は10月6日)。


流鏑馬神事
リンクボタン武田流
(鎌倉まつり)

 武田流「流鏑馬」は、4月に開催される鎌倉まつりの最終日に奉納されます(午後1時)。


流鏑馬・重籐弓
リンクボタン重籐弓
(小笠原流)
天長地久の儀
リンクボタン天長地久の儀
(武田流)


逗子海岸流鏑馬
リンクボタン逗子海岸流鏑馬
曽我梅林の流鏑馬
リンクボタン曽我梅林流鏑馬







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