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熊谷直実の逸話
1187年(文治3年)の流鏑馬

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 一ノ谷の戦いで平敦盛を討ったことでも知られる熊谷直実は・・・

 1187年(文治3年)の流鏑馬の射手から外されて、的立ての役に指名されるが、この役を拒んだことから源頼朝の怒りに触れ領地を没収された。



熊谷直実像
熊谷直実像
(埼玉県・熊谷駅前)


 『吾妻鏡』によると、

 1187年(文治3年)8月4日、源頼朝は、鶴岡八幡宮の放生会(現在の例大祭)で奉納される流鏑馬の射手と的立役を指名します。


 鶴岡八幡宮の放生会は、この年から始まったといわれ、流鏑馬が奉納されています。



 直実は上手(かみて)の的立役を命ぜられましたが不満です。


 怒った直実は頼朝に、

 「御家人は皆同輩のはず。

 それなのに、射手は騎馬、的立は徒歩。

 すでに勝敗をつけたようなもの。

 このような命令に従うことは難しい」

 と申し上げました。


 これに対して頼朝は、

 「この役目は、身の器をわきまえて命じていることである。

 勝敗を分けたものではない。

 とりわけ、的立役は下職ではない。

 新日吉神社法皇がお越しのときは、貴族の侍衆が流鏑馬の的を立てられた。

 その起源からすれば、まるで射手の役を越えている。

 早く役目を受けるように」

 と的立役が名誉ある役目であることを説いたといいます。


 しかし、直実は承知しなかったので、所領を減封されました。

 「一所懸命」の武士の所領を没収するのですから、 頼朝の怒りも大変なものだったと思われます。

 弓の名手であったという直実。

 射手をはずされ、的立役に指名されたことは、屈辱的だったのかもしれません。

 何より騎馬で登場できず、徒歩というのが不満だったのでしょう。

 
 その一方、この年の流鏑馬では、処刑されるはずの諏訪盛澄が妙技を披露して罪を許されています。


 リンクボタン諏訪盛澄の逸話



没収された直実の領地武蔵国熊谷郷は鶴岡八幡宮に寄付されたようです。










〜一ノ谷の戦い〜

源平の庭
リンクボタン源平の庭
(須磨寺)

 一ノ谷の戦い源義経に従って先陣を切った熊谷直実だったが・・・。

 須磨寺には、平敦盛・熊谷直実の一騎討ちの場面を再現した庭がある。


リンクボタン唱歌『青葉の笛』〜平敦盛と平忠度の最期〜

リンクボタン竹生島の青葉の笛〜源義経・平敦盛・静御前そして織田信長〜





〜京都の熊谷直実伝説〜

 のちに熊谷直実は出家。

 法然の弟子となって蓮生(れんせい)と名乗った。

 京都には直実の伝説が数多く残されている。


烏寺(専定寺)
リンクボタン烏寺
金戒光明寺
リンクボタン金戒光明寺


熊谷直実よろい掛け松
リンクボタン直実よろい掛け松
(金戒光明寺)
熊谷直実の墓
リンクボタン直実の墓
(金戒光明寺)


金戒光明寺極楽橋
リンクボタン極楽橋の伝説
(金戒光明寺)
京都法然寺
リンクボタン法然寺



光明寺
リンクボタン光明寺
(京都:長岡京)


東行逆馬の碑
リンクボタン東行逆馬
(京都:光明寺)





熊谷寺
リンクボタン熊谷寺
(熊谷市)

 熊谷寺は直実が往生した地とされている。









歴史めぐり源頼朝




小笠原流・流鏑馬
リンクボタン流鏑馬神事

 鶴岡八幡宮例大祭で奉納される流鏑馬は、1187年(文治3年)8月15日、源頼朝が放生会を催した際に奉納したことに始まるのだとか。



鶴岡八幡宮例大祭
リンクボタン鶴岡八幡宮例大祭

 鶴岡八幡宮の9月の例大祭では小笠原流流鏑馬が奉仕されます。

 4月の鎌倉まつりでは武田流流鏑馬が奉仕されてきましたが、開催の有無については鎌倉市観光協会にご確認ください。










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