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「小笠原流」は、小笠原長清を祖とする小笠原家に伝えられた武家礼法。 小笠原氏は新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏。 初代長清は、1162年(応保2年)、加賀美氏の祖遠光の次男として誕生。 母は杉本義宗の娘(和田義盛の妹?)。 妻は上総広常の娘。 26歳の時に源頼朝の弓馬礼法の師範となったと伝えられている。 |
※ | 長清の母は、和田義盛の娘とする説もあるが年齢からすると義盛の妹と考えられる。 |
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896年(寛平8年)、源能有によって制定された「弓馬の礼」。 その技術は、清和源氏の祖経基が伝承し、満仲→頼信→頼義→義家と相伝され、義家の弟義光から武田家・小笠原家に伝えられた。 小笠原流流鏑馬は、上賀茂神社と下鴨神社の例大祭(葵祭)・日光東照宮の例大祭・富士山本宮浅間大社の流鏑馬祭などで奉納されている。 |
2023年の小笠原流流鏑馬 |
鶴岡八幡宮では、9月の例大祭に続いて、10月の崇敬者大祭でも小笠原流流鏑馬が奉納されます。 |
9月16日(木)13:00〜 10月1日(日)13:00〜 |
鶴岡八幡宮例祭では、舞殿で流鏑馬神事の無事が祈願され、3人の射手に神器として弓矢が授けられる。 流鏑馬は、神事→馬上からの弓引き→神事という一連の流れが重要。 |
3人の射手の装束は、鎌倉時代の狩装束で「あげ装束」とも呼ばれ、引き立て烏帽子、綾藺笠(あやいがさ)を冠り、鎧直垂(よろいひたたれ)に射籠手(いごて)を着け、夏鹿毛の行騰(むかばき)・太刀を佩き、背には箙(えびら)を負い、弓矢を持つもの。 |
重籐弓(しげとうきゅう)は、小笠原流で最高格の免許弓。 |
舞殿での神事を終えると「馬場入りの儀」が執り行われ、奉行が「流鏑馬始め」の由を一の射手に告げると、的が懸けられ、馬場元と場場末役が紅白の大扇を掲げて合図し、射手が馬を馳せ、三つの的を射る。 |
鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の長さは140間(254.54m)。 馬場に設けられた柵を「埒」(らち)と呼び、その高さは、 的側の「男埒」(おらち)が三尺五寸(約106cm)、反対側の女埒(めらち)が二尺八寸(約84cm)。 埒の幅は弓一丈・七尺五寸(2m27p)。 「埒が明かない」という言葉があるが、これは京都三大祭のひとつ賀茂祭(葵祭)に先だって行われる上賀茂神社の競馬会から生まれた言葉なのだとか・・・ |
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的は一尺八寸角(0.55cm)の杉板を、的の中心までの高さが六尺(1.82m)となるように青竹に挟む。 馬場元から一の的までは20間(36.36m)、一の的から二の的までは40間(72.72m)、二の的から三の的までは43間(78.18m)。 |
最初に行われるのは舞殿で弓矢を授かった3人の射手による騎射。 |
続いて平騎射。平騎射の射手の装束は、騎射笠を冠り筒袖の紋付に小袴。 |
![]() (小笠原長清・武田信光・ 海野幸氏・望月重隆) ![]() (1186年(文治2年)) ![]() (1187年(文治3年)) ![]() (1187年(文治3年)) ![]() (1190年(建久元年)) ![]() ![]() |
石和八幡宮は、武田信光が鶴岡八幡宮を勧請した社。 源氏が重んじた射法相伝の儀式はすべてここで行なわれていたのだという。 |
城南宮は、流鏑馬発祥の地として知られる。 後鳥羽上皇は、城南流鏑馬のためと称して兵を集め、北条義時追討の院宣を発した(承久の乱)。 |
![]() ![]() 例大祭 |
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※ | 鶴岡八幡宮例大祭の流鏑馬神事は9月16日13:00〜(騎射は14:00頃〜。) 10月の崇敬者大祭でも奉納されます。 |
![]() 9月14日 |
![]() 9月15日 |
60年に一度の祭礼![]() |
源頼朝も祀る! |
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