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上総氏は、平忠常を祖とする房総平氏。 上総介として上総・下総二ヶ国に所領を持ち、大きな勢力を有していた豪族。 上総広常(かずさひろつね)は、上総権介平常澄の八男(嫡男)。 「上総介広常」の呼称が広く用いられる。 |
房総平氏の祖忠常の母は平将門の娘。 両平氏と呼ばれた千葉常胤・上総広常はその子孫。 |
将門塚 (東京千代田区) |
神田明神 (東京千代田区) |
高望王流桓武平氏 |
広常は、源義朝に仕え、1159年(平治元年)の平治の乱で義朝が敗れると平家に従っていたが、1180年(治承4年)、石橋山の戦いで敗れた源頼朝が安房で再挙すると、2万騎を率いて参陣。 しかし、1183年(寿永2年)12月22日、謀反を企てたとして梶原景時に暗殺された。 のちに上洛した頼朝は後白河法皇に・・・ 「上総介広常は東国に勢いのある武士で、東国を打ち従えることができたのも広常を味方につけたため」 と話したのだと伝えられている。 |
鎌倉七口の一つ朝夷奈切通にある梶原太刀洗水は、広常を暗殺した後、梶原景時が太刀の血を洗い流したという湧き水。 鎌倉五名水の一つ。 広常の屋敷は朝夷奈切通の入口付近にあったのだという。 |
横浜市金沢区の朝比奈のバス通りにある五輪塔(上総介塔)は、広常の墓ともいわれている。 |
広常の本拠地・千葉県一宮町の玉前神社には、広常が「頼朝の祈願成就と東国泰平のため」の願文が奉納されていたのだという。 この願文によって、広常に謀反の心がなかったことが明らかとなり、頼朝は広常を殺してしまったことを悔やんだという。 |
2万騎で参陣した上総広常 新亭完成・鎌倉殿と武家の都の誕生 東国の主君「鎌倉殿」 |
玉藻前(たまものまえ)に化けて鳥羽院をたぶらかし、正体が見破られて那須野で成敗された白面金毛九尾の狐。 その退治を命ぜられたのが三浦大介義明と上総介広常。 初めは狐の術にはまってしまったが、義明の矢が命中し、広常が刀でとどめを刺した。 しかし、狐はその後巨大な石と化し、近づく人や鳥獣がみな死んでしまったため、殺生石と名付けられ恐れられたという。 那須野の狐退治と殺生石 |
京都の真如堂にある鎌倉地蔵は、殺生石を打ち砕いた源翁禅師が、砕かれた石で彫った像なのだという。 |
源頼朝の下に参陣し、富士川の戦いや佐竹征伐で活躍した広常だったが・・・ 1181年(治承5年)6月19日、頼朝は三浦一族が準備をした催しに出席するため三浦に出かけた。 広常も佐賀岡浜で頼朝を出迎えたのだが・・・ 広常は、轡を緩めて敬礼したのみで下馬しなかったのだという。 三浦義連は、広常の前に出て、下馬の礼をとるよう促したが、広常は、 「公私共三代の間、未だその礼を成さず」 と言い放ったのだとか。 その後、衣笠合戦で命を落とした三浦義明の旧跡に場所を移し、三浦義澄が酒宴の席を用意。 酒宴が進んでいくと、岡崎義実が頼朝の水干を所望。 水干はすぐに義実に下賜されたが、広常はこれを妬み、 「このような美しい服は、広常のような者が拝領すべきであって、義実のような老いぼれに下賜されるのは予想外である・・・」 と息巻いたため、双方が言い合いとなり、あわや殴り合いの喧嘩となるところだったという。 これを鎮めたのは、三浦義連だった。 以上は、『吾妻鏡』の記事によるものだが、頼朝が梶原景時に広常暗殺を命じたのは、このような態度も災いしていたのだろうか・・・? |
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