鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉御家人「上総氏」

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上総介広常

 上総介広常は、保元の乱(1156年(保元元年))、平治の乱(1159年(平治元年))には、源義朝に従ったが、平治の乱で義朝が敗れると上総に戻り平家に従っていた。

 1180年(治承4年)、源頼朝石橋山の戦いで敗れ、安房(源頼朝上陸地)に渡ると2万騎の兵を引き連れてこれに参陣。

 富士川の戦いでの勝利後、平家を追って京を目指そうとする頼朝を、千葉常胤とともに止めたのが広常であった。

 直後の佐竹征伐でも大きな働きをした。

 一方で、1181年(治承5年)に三浦で行われた納涼の際には、「公私共に三代の間いまだその礼を為さず」として頼朝に下馬の礼をとらなかったことや、酒宴の席で、岡崎義実頼朝からもらった水干のことで喧嘩をはじめるなど、傲慢な態度が多かったことが『吾妻鏡』に記されている。

 1183年(寿永2年)、頼朝への謀叛を理由に梶原景時に暗殺された。

 その後、広常の兜の中から、頼朝の武運を祈る願文が見つかり、頼朝は一族を赦免したという(参考:梶原太刀洗水)。


リンクボタン2万騎で参陣した上総広常



朝夷奈切通
リンクボタン朝夷奈切通

上総介広常の屋敷は切通入口辺りにあった。







〜那須野の狐退治〜

 鳥羽天皇は、那須野の九尾狐の退治を三浦大介義明上総介広常に命じた。

 初めは狐の術にはまってしまったが、義明の矢が命中し、広常が刀でとどめを刺した。

 しかし、狐はその後巨大な石と化し、近づく人や鳥獣がみな死んでしまったため、殺生石と呼ばれ恐れられた。

 のちに源翁禅師が杖で石を破壊すると災いが止んだという(参考:来迎寺(材木座) 海蔵寺 伝説!殺生石)。


真如堂鎌倉地蔵堂
リンクボタン真如堂
(鎌倉地蔵堂)

 京都真如堂の鎌倉地蔵は上総介広常が討ち果たした狐にまつわる地蔵尊。


殺生石の伝説〜三浦義明と上総広常と源翁禅師(okadoのブログ)

殺生石の伝説と真如堂の鎌倉地蔵(okadoのブログ)



〜頼朝の水干〜
 1181年(治承5年)、三浦で行われた納涼の席で、岡崎義実頼朝から水干を拝領した。
 これに対して広常は、「自分が拝領すべきもので、老いぼれが拝領するものではない」と暴言を吐いたということである。
 義実と広常は、つかみ合いの喧嘩となるところであったが、佐原義連が仲介し収まったという。


暗殺された上総介広常(okadoのブログ)

源頼朝のための願文・・・上総介広常(okadoのブログ)



梶原太刀洗水
リンクボタン梶原太刀洗水

 朝夷奈切通の岩肌から湧き出る鎌倉五名水の一つ。
 梶原景時が上総介広常を討ったあと、この水で太刀の血を洗い流したという。


上総介塔
リンクボタン上総介塔

 横浜市金沢区の朝比奈のバス通りにある五輪塔(「上総介塔」)は、上総介広常の墓ともいわれている(参考:朝夷奈切通)。


源頼朝大軍を率いて鎌倉入り(okadoのブログ)

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