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岡崎義実は、三浦義継の子で、三浦大介義明の弟。 悪四郎と呼ばれた勇猛な武将だった。 中村宗平の娘を妻とし、岡崎の地(現在の伊勢原市・平塚市)を領するようになり「岡崎」を名乗る。 源氏の家人だった義実は、平治の乱で源義朝が敗死すると、義朝の館のあった鎌倉亀谷(現在の壽福寺辺り)に、その菩提を弔うための祠を建立。 1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵すると嫡子与一義忠とともに従い、石橋山の戦いでは「頼朝七騎」の一人に数えられた。 一方で、この合戦では義忠をなくしている。 のちに義忠を討った長尾定景が捕らえられ、頼朝は義実にその身を預けるが、慈悲深い義実は、定景が毎日法華経を唱えているのを聞いて、とうとうその首を斬ることができず、頼朝に定景の赦免を願い出たのだという。 |
義実が許した長尾定景は、源実朝を暗殺した公暁を討ち取った武将。 のちの戦国武将上杉謙信の祖ともいわれ、久成寺に一族の墓がある。 |
岡崎義実の墓は、その居城跡(岡崎城)に建てられている無量寺から、500メートル程度の丘にある。 もともと、嫡子義忠の乳母吾嬬を埋葬したところに、義実を葬ったのだと伝えられている。 1200年(正治2年)6月21日死去(89歳)。 |
源頼朝の挙兵から武家政権の確立まで多大の功績を残し、頼朝から水干まで賜った義実であったが・・・ 1193年(建久4年)に大庭景義とともに出家し(させられ?)、その晩年は不遇なものであったという。 亡くなる3ヶ月前には、北条政子にその窮状を訴え、政子は将軍源頼家に、義実に一所を与えるよう口添えしている。 義実が亡くなってから13年後、一族の和田義盛が北条義時に対して反乱を起こす(和田合戦)。 このとき、義実の子土屋義清らの一族は、義盛に荷担し、そのため中村一族は没落する。 中村氏は、土肥実平、土屋宗遠などを出し、その一族は、頼朝の挙兵に貢献した。 義実は、中村宗平の娘を妻とし、子の義清は土屋氏の養子となった。 土肥実平、土屋宗遠は義兄弟。 義実や大庭景義が出家した背景には、頼朝の北条氏への優遇に不満をもったからともいわれ、中村一族も同じように北条氏への不満を抱き続けていたものと考えられる。 また、この2人は曽我兄弟の仇討ちに何らかの関与があったのではないかという説もある。 |
無量寺 (伊勢原市) |
天徳寺真田尊 (平塚市) |
証菩提寺 (横浜市) |
平塚市岡崎5736番地 (無量寺(岡崎城址)からすぐ) |
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