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1159年(平治元年)、平治の乱で敗れ、伊豆国の蛭ヶ小島に流された源頼朝。 それから20年・・・ 1180年(治承4年)4月27日、伊豆国の北条館で以仁王が発した平家打倒の令旨を受け取った頼朝は、8月17日、源氏再興の兵を挙げた。 伊豆国の目代山木兼隆を襲撃して討ち取った後、8月20日、相模国へ進軍。 従った主な武将は、北条時政・北条義時・土肥実平・土屋宗遠・岡崎義実・佐奈田義忠・大庭景義・佐々木四兄弟・天野遠景・加藤景廉・仁田忠常など。 |
〜石橋山に布陣〜 |
伊豆国を出て東に軍を進めた源頼朝は、8月23日、大庭景親(三千騎)・伊東祐親(三百騎)を相手に石橋山に布陣。 頼朝軍は300騎。 対する平家方は大庭景親、俣野景久・河村義秀・渋谷重国・糟屋盛久・海老名季貞・曽我祐信、山内経俊・森景行・長尾為宗・長尾定景・原景房・原義行・熊谷直実をはじめとする3000騎が石橋山と谷を一つ隔てて布陣。 頼朝の背後には、伊東祐親が300騎を従えて布陣した。 頼みの三浦軍は、折からの雨による増水で酒匂川を渡ることができず、8月24日の未明には大勢が決していたものと考えられている。 石橋山の戦い (歴史めぐり源頼朝) |
〜頼朝惨敗〜 |
この戦いで惨敗した頼朝は、土肥実平の手引きで土肥の椙山へ逃げ込んだ。 このとき、杉の巨木の洞穴に隠れていた頼朝を当時平氏方だった梶原景時が発見するが、それを見逃したという伝説は知られている。 その後、頼朝は箱根権現に身を寄せるが、間もなく土肥郷へ下り、真鶴から実平が用意させた舟で安房へと渡った。 安房に上陸した頼朝は、三浦義澄・北条時政らと合流。 千葉常胤・上総介広常らを引き入れ、さらに畠山重忠などの武蔵の武将も頼朝の下に降じ、10月6日、相模国に入った。 石橋山の戦いには、頼朝の異母弟全成も兄の挙兵を聞いて駆けつけていたが、佐々木定綱らに連れられ渋谷重国に匿われている。 |
佐奈田霊社 |
文三堂 |
石橋山の戦いでは、三浦義明の弟岡崎義実の嫡男義忠が討死した。 石橋山古戦場には、義忠を祀る佐奈田霊社と郎党文三を祀る文三堂が建てられている。 |
石橋山の戦いと佐奈田与一義忠と文三 |
北条宗時は北条時政の嫡男。 伊東祐親の軍に包囲され討死している。 |
北条時政の嫡男は誰だったのか?〜石橋山の戦いで討死した北条宗時は?〜 北条時政の不思議な行動〜石橋山の戦い後、時政は逃亡した?〜 |
湯河原町のしとどの窟は、石橋山で大敗した源頼朝が隠れ潜んだという岩窟。 |
湯河原町の小道地蔵堂には、石橋山で大敗した源頼朝を匿った純海和尚の伝説が。 |
箱根権現(現箱根神社)の行実と永実は、石橋山で大敗した源頼朝を匿った。 源頼朝を助けた箱根権現の行実と永実 |
真鶴町の鵐窟(しとどのいわや)は、安房へと渡る頼朝、安達盛長、岡崎義実、新開忠氏、土屋宗遠、土肥実平、田代信綱の主従七騎が隠れ潜んだ岩屋と伝えられている。 |
源頼朝船出の浜 (真鶴町) |
源頼朝上陸地 (鋸南町) |
真鶴から船出した頼朝が上陸したのは安房国の平北郡猟島。 |
伊豆山神社 (熱海) |
秋戸郷跡 (熱海) |
源頼朝が石橋山に向かった後、北条政子は伊豆山権現(現伊豆山神社)の覚淵に匿われ、頼朝が船出した後は、秋戸郷に身を潜めていたのだという。 |
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小田原駅から箱根登山バス「石橋」バス停下車 |
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