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源頼朝配流の地
蛭ヶ小島

静岡県伊豆の国市

編集:yoritomo-japan.com








蛭ヶ小島
蛭ヶ小島の頼朝と政子の像


 1159年(平治元年)12月、平治の乱平清盛敗れた源頼朝

 翌年(永暦元年)2月9日、平宗清(平頼盛の家人)に捕えられて清盛のいる六波羅へ連行されたが、清盛の継母池禅尼の命乞いもあって、3月11日、伊豆国流罪となった。

 伊豆に流される頼朝に、池禅尼は地蔵菩薩を与えたのだという。

 愛知県美浜町の野間大坊(大御堂寺)の客殿に祀られている像がそれなのだとか。


 『平家物語』によると流された地は蛭ヶ小島(ひるがこじま)。

 ただ、実際がどうだったのかは不明で、近年では流されたのは伊東という説が有力。


 『吾妻鏡』によると、頼朝を伊豆国へ送り届けたのは、父義朝の家臣だった長田資経の親族の藤七資家。

 源家代々の家人らは、滅びたり、平家の家人となったり、左遷の身となっていたため、頼朝に従う者はいなかったのだという。

 のちの1184年(寿永3年)、頼朝は資経の恩に報いるため、資経の子・実経の本領を安堵している。



『吾妻鏡』には「蛭島」という地名が登場する。

蛭ヶ小島は、現在蛭ヶ島公園として整備されている。



リンクボタン伊豆国流罪

リンクボタン源頼朝の助命嘆願をした池禅尼

リンクボタン源頼朝が流された地は伊東という説


伊東で源頼朝伝説





建部大社
リンクボタン建部大社
(滋賀県大津市)

 配流地の伊豆へ赴く頼朝が源氏再興を祈願したという社。


源頼朝 平清盛
リンクボタン伊豆国流罪の源頼朝と平清盛









蛭ヶ小島
守山から見える蛭ヶ小島周辺


 源頼朝が流されたという伊豆国の蛭ヶ小島は、水田の中にあった高地で、蛭が多かったことから付いた名といわれている。

 頼朝は、箱根権現走湯権現(伊豆山権現)に帰依し、尾張国野間で暗殺された父義朝の菩提を弔いながら、約20年を伊豆で過ごした。

 乳母比企尼らの援助などもあり、罪人とはいえ比較的自由な生活をしていたものと考えられている。

 また、祐範(母由良御前の弟)は毎月使者をよこし、伯母が頼朝の乳母だったという三善康信は、京都の情報を送り続けていたのだという。

 函南町の六萬部寺の経塚は、父祖の冥福と源氏の再興を祈念し、法華経六萬部を埋納したと場所と伝えられている。

 そして、1180年(治承4年)、頼朝は伊豆国で源氏再興の挙兵をすることとなる。



蛭ヶ小島


 蛭ヶ小島の一帯は、今でものどかな田園地帯。

 背後の山には戦国時代に韮山城が築かれている(北条早雲の居城)。



箱根神社
リンクボタン箱根神社
(箱根権現)
伊豆山神社
リンクボタン伊豆山神社
(走湯権現)


 流人の頼朝が崇敬した箱根権現走湯権現は、古代からの霊地。



鳳来寺
リンクボタン鳳来寺
(新城市)
智満寺
リンクボタン智満寺
(島田市)


 鳳来寺は、平治の乱後、頼朝が匿ってもらったという薬師如来の霊場。

 智満寺は、頼朝が源氏再興を祈願したという観音菩薩の霊場。





梛の葉の縁結びの碑
リンクボタン梛の葉の縁結びの碑

 源頼朝は、1177年(治承元年)頃には北条時政の娘政子と結婚。

 2人は伊豆山権現の加護によって夫婦となることができたのだという。

 近世中期の投節の一つに、「こんどござらば持て来てたもれ、伊豆のお山のなぎの葉を」という歌がある。

 当時、「梛(なぎ)の葉」を鏡の裏に入れて「お守り」にすると願い事がかなうといわれていた。

 歌の中の「伊豆のお山」とは伊豆山権現のこと。 



(参考)

リンクボタン伊豆山神社の梛の木と梛の葉守り

リンクボタン源頼朝と北条政子の愛の証「梛の葉」



蛭ヶ小島頼朝・政子像
頼朝・政子の像
(蛭ヶ小島の夫婦)

 頼朝(31歳)・政子(21歳)。

 若き日の二人の像は、2003年(平成15年)に寄贈されたもの。

 二人が見つめているのは霊峰富士。





蛭島碑記
蛭島碑記

 1790年(寛政2年)、伊豆の地誌「豆州志稿」を著した秋山富南が、頼朝が流された地と考証したことを記念して建立されたもの。





蛭ヶ島茶屋
蛭ヶ島茶屋

 源頼朝が流されたとされる蛭ヶ小島は、公園として整備され、無料休憩所の「蛭ヶ島茶屋」では、そばやうどんなどの軽食が楽しめる。



源頼朝キャラクター
源氏ボタルよりともくん。





〜鎌倉で上演された子ども創作能〜

伊豆の頼朝
リンクボタン伊豆の国市子ども創作能
「伊豆の頼朝」

(鎌倉まつり)

 鎌倉まつりでは、伊豆の国市の小学生が演じる「伊豆の頼朝」が上演されてきた。 





〜隠れ里の稲荷神〜

佐助稲荷神社
リンクボタン佐助稲荷神社
(鎌倉)

 蛭ヶ小島で病に臥していた頼朝の夢枕に、鎌倉隠里(かくれさと)の稲荷大明神が現れて、平家打倒の挙兵を勧めたのだという。

 その後、壇ノ浦で平家を滅ぼし、鎌倉に武家政権の府を誕生させた頼朝は、西方の霊地に祠が発見されると、畠山重忠に命じて社を建立させた。

 それが佐助稲荷神社なのだとか。 










〜八幡大菩薩と清水観音〜
(救われた頼朝と常盤の子たち)

 1159年(平治元年)の平治の乱後、源義朝の側室常盤御前は、今若(阿野全成)、乙若(源義円)、牛若(源義経)を連れて幼少の頃より信仰していた清水寺に参り、千手観音(子安塔)に三人の子の無事を祈願したのだという。

 『平治物語』(学習院本)には、常盤と三人の子が助けられたのは清水観音の力によるもので、源頼朝が死罪を免れて蛭ヶ小島に流罪となったのは八幡大菩薩(石清水八幡宮)の力によるものだと述べられている。



清水寺子安塔
リンクボタン子安塔
(京都:清水寺)
石清水八幡宮
リンクボタン石清水八幡宮
(八幡市)





〜源氏再興の挙兵〜

 1180年(治承4年)、以仁王の令旨を受け、8月17日挙兵

 この日は、源氏再興を祈願していた三嶋大社の祭礼の日だった。

 平家の目代山木兼隆を討ち、相模国へ進出しようとするが、大庭景親の軍に阻まれ、石橋山の合戦で敗北する。

 しかし、土肥実平の手引きによって真鶴から船で安房(源頼朝上陸地)へと渡り、千葉常胤上総介広常らを従え、10月6日、鎌倉入りを果たす。

 1185年(文治元年)、平家を壇ノ浦に滅ぼし、1189年(文治5年)、奥州藤原氏を滅ぼして全国を統治(奥州征伐)。

 1192年(建久3年)には、征夷大将軍に任命された。

 1199年(正治元年)、相模川の橋供養の帰りに落馬し、その怪我が原因で翌1月13日死去。



三嶋大社
リンクボタン三嶋大社

 頼朝は、源氏再興を祈願するため三嶋大社に百日間通ったのだという。



リンクボタン源頼朝の挙兵

リンクボタン以仁王の令旨と源頼朝

リンクボタン以仁王が発した平家打倒の令旨


源頼朝キャラクター
源氏ボタルよりともくん。


源頼朝特集・・・挙兵から鎌倉入り(okadoのブログ)








源頼朝挙兵

歴史めぐり源頼朝




蛭ヶ小島
蛭ヶ小島

静岡県伊豆の国市四日町17−1

伊豆箱根鉄道駿豆線韮山駅から徒歩10分



伊豆の国市・源頼朝MAP
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