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茅ヶ崎市の旧相模川橋脚は、1198年(建久9年)12月27日に源頼朝が渡り初めをした相模川の橋の遺構と考えられている。 相模川の橋は、武蔵国稲毛(川崎市)を領していた稲毛重成が、亡き妻の供養のために架けたもので、橋の落成式には頼朝も参列したのだという。 重成の妻は北条時政の娘、北条政子・北条義時の妹だった。 |
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関東大震災で浮かび上がった橋脚 |
旧相模川の橋脚は、地中に埋まっていたが、1923年(大正12年)の関東大震災で浮かび上がってきた。 『吾妻鏡』などの記録から、相模川に架けられた橋の遺構とされ、国の史跡に指定されている。 2013年(平成25年)には国の天然記念物にも指定された。 確認された橋脚は10本。 橋脚の間隔から、橋幅約9メートル、長さ40メートルを超すものであったと推測されている。 |
橋脚はヒノキ製で、2メートル間隔の3本1列の橋脚が、10メートル間隔で4列であったと推定されている。 2003年(平成13年)の調査まで本物が並んでいたが、腐食が激しいため、現在は模造の橋脚が池に配置されている。 この橋の確認によって、相模川は現在より東方を流れていたことが判明した。 |
頼朝落馬伝説と義経亡霊伝説 |
源頼朝は相模川の橋供養の帰路、落馬してしまう。 それが原因で翌年1月13日に亡くなったとされ、『吾妻鏡』にも橋供養の帰りに落馬して程なく亡くなったことが記されている。 |
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源頼朝の落馬の原因は、鶴嶺八幡宮の前で源義経の亡霊が現れたためだという。 鶴嶺八幡宮参道の弁慶塚は、義経一族の霊を慰めるために建てられた。 |
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龍前院にある10基の五輪塔は、源頼朝の落馬の責任をとって自害した警護の者10名の墓ともいわれている。 御霊神社には源義経が祀られている。 |
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![]() (鎌倉市) |
![]() (下関市) |
![]() (鎌倉市) |
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頼朝の死因は 一般的には落馬だが・・・ |
北条政子が源実朝の菩提を弔うために創建したという高野山の金剛三昧院の史書には、頼朝の死についての驚くべき説が書かれていた! |
「茅ヶ崎駅」下車 「平塚駅行き」バス「町屋」または「今宿」下車 |
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