|
稲毛重成は、桓武平氏の血をひく秩父氏の一族。 1180年(治承4年)の石橋山の戦いでは源頼朝に敵対したが、頼朝が安房(源頼朝上陸地)に渡り千葉常胤や上総広常を従えて体勢を立て直すと、畠山重忠らととも参陣(参考:鎌倉入り)。 北条時政の娘(北条政子の妹)を妻とし稲毛荘を領したが、1205年(元久2年)6月23日、畠山重忠の乱で「畠山謀反」を言い立てたとして、北条義時の命を受けた大河戸行元に殺害された。 弟の榛谷重朝とその嫡男重季・次男秀重は三浦義村に討たれ、重成の子小沢重政は宇佐美祐村に討たれている。 |
稲毛重成の父・小山田有重は、武蔵国秩父郡を本拠とした秩父氏の出身。 畠山重忠の父畠山重能は有重の兄。 従って重忠と重成は従兄弟。 |
石橋山古戦場 |
文三堂 (石橋山古戦場) |
1180年(治承4年)、源頼朝が大敗を喫した石橋山の戦いで稲毛重成は、佐奈田(真田)与一義忠の郎党陶山文三家康を討ち取った。 |
1195年(建久6年)3月、稲毛重成は東大寺の大仏殿落慶供養に参列するため上洛した源頼朝に随行。 その帰路の6月28日、美濃国で妻の危篤を知らされた重成は、頼朝から下賜された駿馬で稲毛荘へもどるが、妻は7月4日に病死。 妻を亡くした悲しみから重成は出家し、広福寺を氏寺としたのだという。 その後、重成は、亡き妻の供養のために相模川に橋を架け、1198年(建久9年)12月27日、頼朝が渡り初めを行った。 頼朝はその帰路に落馬し、それが原因で翌年正月13日に亡くなったと伝えられている。 |
旧相模川橋脚 (茅ヶ崎市) |
源頼朝墓 (鎌倉市) |
妻の死と出家と橋供養と頼朝の死〜稲毛重成〜 大慈寺建立縁起と頼朝の死因 (落馬の原因は病気?) |
畠山重忠の乱で重成が討たれた後、北条政子は重成の孫(綾小路師季の娘で2歳)を鎌倉に呼んで猶子とし、武蔵国小沢郷(重成の所領だった地)を与えている。 政子にとっては妹の子(姪)であり、時政にとっては外孫にあたる。 1218年(建保6年)の熊野詣には、土御門通行に嫁がせるため同伴させ上洛している。 |
広福寺は真言宗の寺院。 承和年間(834〜848年)に慈覚によって創建されたという。 |
川崎市多摩区枡形6−7−1 小田急線「向ヶ丘遊園」駅下車徒歩10分 |
|