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畠山重忠(はたけやましげただ)は、武蔵国男衾郡畠山(現在の深谷市)を本拠としていた畠山重能の子。 1164年(長寛2年)誕生。 母は三浦義明の娘(江戸重継の娘とも)。 『吾妻鏡』に記録からすると、遅くとも1187年(文治3年)には誕生地の畠山から交通の要衝であった菅谷(現在の比企郡嵐山町)の地に進出したものと考えられている。 畠山氏は「武蔵国留守所惣検校職」を継承してきた秩父氏の一族で、重忠の父重能が畠山氏を称したことに始まる。 秩父氏は、平良文を祖とする桓武平氏。 |
秩父氏が本拠としたのは武蔵国秩父郡吉田郷。 秩父市立吉田小学校周辺が秩父氏館跡と伝えられている。 |
畠山重能(しげよし)は、叔父の秩父重隆と秩父氏の家督を争い、重隆が源義賢と結んで勢力を拡大すると、源義朝・義平父子と結び、1155年(久寿2年)、義平とともに秩父氏の本拠大蔵館を攻め、秩父重隆と源義賢を討った(大蔵合戦)。 この合戦により、討たれた重隆の子能隆と孫重頼は、拠点を大蔵から河越に移している(参考:河越館跡)。 また、義賢の次男駒王丸(のちの木曽義仲)は、重能と斎藤実盛の計らいにより信濃国の木曽谷へと逃がれている。 1159年(平治元年)の平治の乱で源義朝が平清盛に敗れると、平家の家人となっていたが、頼朝挙兵後の詳細は不明。 |
源義賢の墓 (嵐山町) |
大蔵館跡 (嵐山町) |
秩父重綱 | ||||
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秩父重弘 | 秩父重隆 | 江戸重継 | ||
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畠山重能 | 葛貫能隆 | 江戸重長 | ||
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畠山重忠 | 河越重頼 |
1180年(治承4年)8月、以仁王の令旨をうけた源頼朝が伊豆国で挙兵するが、8月24日、石橋山の戦いで大敗。 平家方の大庭景親の要請で出陣していた重忠は、相模国まで進軍していたが、頼朝の敗北を聞いて引き返してきた三浦一族と鎌倉の由比ヶ浜で遭遇し、合戦となってしまう。 この日は、双方が痛手を負い退却したが、重忠は、河越重頼・江戸重長に加勢を呼びかけ、8月26日、三浦氏の居城衣笠城を攻めた。 三浦一族の総帥三浦義明は、子義澄や和田義盛らに対し、衣笠城を逃れて頼朝に従うことを諭し、自らは城に残って討死したのだという。 |
※ | 頼朝が挙兵した時、重忠の父重能は大番役で京都にいたため、17歳の重忠が一族を率いていた。 |
衣笠城址 (横須賀) |
三浦義明墓 (横須賀) |
石橋山での敗戦後、頼朝は、真鶴岬から安房国にわたって再挙。 10月4日、鎌倉を目指す頼朝が長井の渡しに達すると、それまで平家方に属していた重忠は、河越重頼・江戸重長とともに参陣。 10月6日、頼朝は重忠を先陣として相模国に入った。 |
『源平盛衰記』によると・・・ 1180年(治承4年)、重忠は高祖父の平武綱が賜った源氏の白旗を掲げて頼朝の下へ参陣したのだという。 武綱は源頼義・義家父子に従い、1051年(永承6年)の前九年の役では頼義から源氏の白旗を賜り、1083年(永保3年)の後三年の役では先陣を務めたと伝えられる人物。 重忠が鎌倉入りの先陣を務めたのは、先祖の故事に倣ってのことなのだとか。 |
1183年(寿永2年)11月、後白河法皇から東海・東山両道における支配権を認められた頼朝は、木曽義仲を討伐するため、源義経を近江国に派遣して、義仲の動向を探らていた。 そして、翌年1月20日、源範頼が瀬田から、源義経が宇治から京へ攻め込み、逃亡した義仲を近江国で討ち取っている。 この戦いで重忠は、義経軍に属して宇治川の戦いで活躍。 『平家物語』によると、おぼれかけた大串重親を岸にほうり投げたのだという。 また、『源平盛衰記』には、義仲の妾巴御前と渡り合ったことが記されている。 |
溺れかけた大串重親を岸に投げ上げた畠山重忠 木曽義仲の妾巴御前と戦った畠山重忠 |
範頼と義経が木曽義仲を討つと、後白河法皇は頼朝に平家追討の院宣を下す。 2月7日、範頼が生田口から義経が鵯越から一の谷に拠る平家を攻めて敗走させた(一の谷の戦い)。 |
『源平盛衰記』によると、一の谷の戦いで重忠は義経軍に属し、鵯越の逆落しでは、愛馬三日月を労わって背負って下りたのだという。 畠山重忠公史跡公園の像は、その伝説の光景を表したもの。 ただ、『吾妻鏡』の記録では、重忠は範頼軍に属している。 |
一の谷の戦いで敗れた平家軍は、屋島に逃れていたが、1185年(元暦2年)2月19日、義経が屋島に拠る平家を奇襲(屋島の戦い)。 『吾妻鏡』では、重忠の活躍はみられないが、『源平盛衰記』では、義経と梶原景時が言い争った「逆櫓の論争」、那須与一の「扇の的」などに登場している。 その後、平家は3月24日の壇ノ浦の戦いで滅亡。 壇ノ浦の戦いでは、『吾妻鏡』・『平家物語』・『源平盛衰記』のいずれにも重忠は登場していない・・・ |
〜頼朝と義経の対立と武蔵国留守所惣検校職〜 |
1185年(文治元年)、頼朝と義経が対立すると、11月12日、義経の舅という理由から河越重頼が領地を没収され、嫡男の重房とともに誅殺された。 これにより、武蔵国留守所惣検校職を重忠が継承している。 |
※ | 留守所(るすどころ)は、国司不在の役所で、惣検校職(そうけんぎょうしき)は留守所を統括していた。 |
※ | 義経の正妻は、河越重頼の娘郷御前。 郷御前の母は、頼朝の乳母比企尼の娘河越尼。 |
1186年(文治2年)4月8日、義経の愛妾静御前が鶴岡八幡宮で舞を披露。 工藤祐経が鼓を、重忠が銅拍子を担当した。 |
1187年(文治3年)6月29日、重忠が地頭を務める伊勢国沼田御厨で、重忠の代官の不祥事が発覚。 重忠は、千葉胤正に預けられた後、武蔵国へ引き上げていたが、梶原景時が謀反の疑いがあると讒言。 しかし、11月21日、鎌倉に戻った重忠は頼朝に許されている。 景時に讒訴された重忠 |
1189年(文治5年)7月19日、頼朝が奥州征伐に出陣。 東海道の大将軍は、千葉常胤と八田知家。 北陸道の大将軍は、比企能員・宇佐美実政ら。 そして、大手の先陣は重忠だった。 この合戦で活躍した重忠は、戦後、陸奥国葛岡郡地頭職に任ぜられている。 |
畠山重忠の武士の精神〜奥州征伐:阿津賀志山の戦い〜 傲慢な梶原景時と礼儀を尽くす畠山重忠〜捕虜の取り調べ:奥州征伐〜 |
1190年(建久元年)9月16日、頼朝の上洛供奉のため武蔵国から鎌倉に参上し、10月2日、行列の先陣を命ぜられる。 1195年(建久6年)3月の東大寺の大仏殿落慶供養に参列するための上洛でも先陣を務めている。 『吾妻鏡』によると、この年の上洛時には、栂尾高山寺の明恵を訪ねたのだという。 |
号のある勇士ただ今来り入るべし!〜栂尾の明恵に会いに行った畠山重忠〜 |
1199年(建久10年)正月13日、源頼朝が死去。 『吾妻鏡』や『北条九代記』によると、頼朝は旗挙げ以来、忠義を尽くしてきた重忠に子の頼家を守護するよう遺言していたのだという。 |
1199(正治元年)10月、結城朝光を讒言した梶原景時が、御家人66名の弾劾に遭って失脚。 重忠も弾劾状(連判状)に署名した者の一人。 鎌倉を追放された景時は、翌年1月20日、駿河国清見関で討死している(梶原景時の変)。 |
梶原景時の変で生け捕られた勝木則宗と畠山重忠の美談 |
1202年(建仁2年)、二代将軍源頼家が京都に建仁寺を建立。 佐々木定綱らとともに造営工事を助けている。 |
1203年(建仁3年)9月2日、北条時政が比企能員を暗殺。 重忠は、北条政子の命により、北条義時らとともに比企邸を攻めて、一族を滅亡させた(比企能員の変)。 将軍頼家は修禅寺に幽閉され、翌年、暗殺されている。 |
1204年(元久元年)10月14日、三代将軍源実朝の妻となる坊門信清の息女を迎えるため、北条政範・結城朝光・千葉常秀・畠山重保(畠山重忠の嫡男)らが上洛。 11月4日、京都守護の平賀朝雅邸で催された酒宴の席で、朝雅と重保が口論となってしまう。 その翌日に、北条政範が死去。 平賀朝雅は、北条時政とその後妻牧の方の娘婿。 北条政範は、時政と牧の方の子。 重保に深い恨みを抱いていた朝雅と実の子を失くして悲嘆にくれる牧の方は、1205年(元久2年)6月21日、重忠と重保の謀反を訴え、時政が畠山討伐に乗り出した。 『吾妻鏡』には、6月21日に訴えたとあるが、時政の命を受けた稲毛重成が6月19日に重忠と重保を鎌倉に呼び出していることなどから、時政と牧の方は、かなり前から畠山討伐を計画していたと考えられる。 6月22日早朝、重忠より先に鎌倉に到着していた重保は、虚偽の通報で由比ヶ浜に誘きだされ、時政に命じられた三浦義村に討たれた。 その一方で時政は、北条義時を総大将とする幕府軍を出陣させ、鎌倉へ向かう途中の重忠を討つことに。 武蔵国の二俣川で幕府軍を迎え撃った重忠だったが、愛甲三郎季隆の矢を受けて最期を遂げた。 重忠・重保父子が討たれた後・・・ 二人を呼び出した稲毛重成は、6月23日、義時に命じられた三浦義村に討たれ、二人を騙し討った時政と牧の方は、閏7月20日、平賀朝雅を将軍に据えようとして、北条政子と義時によって鎌倉を追放された(牧氏の変)。 平賀朝雅は閏7月26日に京都で討たれている。 参考までに、重忠の妻は時政の娘、重保の母は時政の娘、重成の妻は時政の娘。 |
重忠終焉の地 |
首塚 |
首洗い井戸 |
六ツ塚 |
駕籠塚 (重忠内室の墓) |
遺烈碑 |
重忠は、僅か150騎を従えていたのみで、家臣からは引き返すよう進言されていたが、「潔く戦うことが武士の本懐」として討伐軍を迎え撃つことにしたのだという。 重忠内室の墓(駕籠塚)は、重忠の死を知って自刃した菊の前のもので、菊の前は重忠が最初に妻とした足立遠元の娘と伝えられている。 潔く戦うことが武士の本懐 |
鶴岡八幡宮大鳥居(一の鳥居)の傍らにある宝篋院塔は、由比ヶ浜で討たれた重保の墓とされている。 |
重忠の生地は、武蔵国男衾郡畠山とされている。 その生地は、畠山重忠公史跡公園として整備され、園内には重忠主従の五輪塔が建てられている。 |
武蔵御嶽神社 (青梅市) |
産安社 (青梅市) |
武蔵御嶽神社は、奈良の吉野の蔵王権現が勧請された霊地。 鎌倉武将が信仰し、摂社産安社は源頼朝創建と伝えられる。 |
鎌倉歴史文化交流館に展示されている「赤糸縅大鎧」(模造)は、重忠が武蔵御嶽神社に奉納したもの。 |
菅谷館跡は、畠山館から菅谷の地に進出してきた重忠の館跡と考えられている。 |
鬼鎮神社は菅谷館の鬼門の守護神として創建されたのだという。 |
慈光寺は、源頼朝や畠山重忠が信仰した観音霊場。 畠山重忠の乱後、末子の重慶は慈光寺の別当となっている。 |
謀反を企てて誅殺された畠山重忠の子・重慶 |
鎌倉での重忠の館は、筋替橋の東南にあったといわれ、鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の東の鳥居を出た所に邸跡碑が建てられている。 |
佐助稲荷神社は、頼朝の命により重忠が建立したと伝えられる社。 |
永福寺は、頼朝が奥州平泉の中尊寺、毛越寺、無量光院などを模して建てた寺院。 その建設には重忠も携わり、苑池の造営では巨石を一人で運んで立て置いてみせたのだという。 |
源頼朝の永福寺建立と怪力で活躍した畠山重忠 |
東光禅寺は、重忠の創建と伝えられる寺院。 境内には重忠の供養塔が置かれ、近くには嫡男重保の五輪塔もある。 |
満福寺は、重忠の菩提寺。 重忠の位牌が残され、観音堂には重忠の守り本尊で等身大の千手観音像が安置されている。 |
畠山重忠の一生を詠った重忠節 |
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