鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の東の鳥居を出たところに建てられている畠山重忠邸跡の石碑。
ただ、この周辺には政所があったと考えられ、『吾妻鏡』の建久10年(1199年)の条には「畠山次郎重忠の南御門宅」とあることなどから、実際は源頼朝の御所の正門(南御門)の前にあったと考えるべきなのかもしれない。
畠山重忠は、武蔵国(現埼玉県)の武将。
1180年(治承4年)の頼朝の挙兵時には平家方の大庭景親につき、三浦大介義明と戦って義明を自刃に追い込んだが、頼朝が安房(源頼朝上陸地)に渡って勢力を蓄えるとその軍に従って鎌倉入りの先陣を務めた(参考:衣笠城址 小坪合戦と衣笠合戦)。
宇治川の合戦では、おぼれかけた大串重親を岸にほうり投げたといい、一ノ谷の戦いのひよどり越えでは、愛馬を背負っておりたという伝説が残る。
頼朝の信頼を得て、段葛や佐助稲荷神社の造営を任され、永福寺跡造営の際には庭に据えるための大きな石を一人で運んだのだとか。
源義経の愛妾静が鶴岡八幡宮の若宮回廊で頼朝に舞を披露した際には、工藤祐経が鼓を、重忠が銅拍子を担当した。
頼朝の死後の1205年(元久2年)、北条時政に騙され、領地から鎌倉に赴く途中の武蔵国二俣川(現在の横浜市旭区)で討死。
旭区には、時政軍が一万の兵であったことから「万騎が原」という地名が残されている。 |