奈良・京都

宇治川の戦い
〜宇治川先陣の碑〜

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宇治川先陣の碑
宇治川先陣の碑


 1183年(寿永2年)7月28日、数万騎を率いて入洛した木曽義仲

 しかし、皇位継承を巡って後白河法皇と対立し、統制がとれていない軍は京で乱暴狼藉を繰り返した。

 9月19日、後白河法皇は義仲に平氏追討を命じ西国へ出陣させると、10月14日には鎌倉の源頼朝に東海・東山道の支配権を与え(寿永二年十月宣旨)、上洛を促した。

 11月4日、頼朝の弟源義経が近江国にまで進軍。一方の義仲は11月19日、法住寺殿を焼き討ちし後白河法皇を幽閉した。

 翌年1月20日、頼朝は近江国まで進軍させていた源範頼義経の弟たちに義仲追討を命じ、範頼瀬田を、義経が宇治を攻撃した。

 義経は「宇治川の戦い」で志田義広を破り入京。

 敗走した義仲は近江国粟津で最期を遂げた。 


瀬田の唐橋
リンクボタン瀬田の唐橋

(範頼が進軍した橋)


木曽義仲の墓
リンクボタン木曽義仲の墓

(義仲寺)
木曽義仲の首塚
リンクボタン木曽義仲の首塚

(八坂の塔)





〜宇治川の先陣争い〜

 「宇治川の戦い」では、源頼朝から名馬を与えられた佐々木高綱梶原景季の先陣争いが繰り広げられた。

 佐々木高綱が拝領したのは「生食」(いけづき)。

 梶原景季が拝領したのは「磨墨」(するすみ)。


磨墨
リンクボタン磨墨像

(東京大田区)
池月
リンクボタン池月像

(東京大田区)


 平等院方面から宇治川に至った二人は、当初景季が先を進んでいた。

 高綱は前方を行く景季に対し・・・

「馬の腹帯がゆるんでいるから、おしめなされ」

 と声をかけ、

 景季が腹帯を締め直している間に、先に川の中に馬を乗り入れて向こう岸へと渡り、

 「我こそは宇多天皇から九代目の後胤、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣」と名乗ったという。


リンクボタン歴史めぐり源頼朝:宇治川の先陣争い


〜徒歩立ちの一番乗り:大串重親〜

 源義経に従って宇治川の戦いにのぞんだ畠山重忠は、500騎を率いて宇治川を渡ろうとしたが、馬を射られて徒歩になってしまった。

 そこへ、同じく馬を流され、おぼれかけた大串重親が重忠につかまってきたため、重忠は重親を対岸に放り投げた。

 そのおかげで、重親は徒歩立ちの一番乗りの名乗りを上げたという。







〜以仁王と源頼政〜

 宇治は、1180年(治承4年)に全国の源氏に対し、平家打倒の令旨を発し、自らも挙兵した以仁王と、源頼政終焉の地。

 2人は、東大寺興福寺の衆徒を頼りにするため南都へ向かう途中だった。


宇治橋
リンクボタン宇治橋
源頼政墓
リンクボタン源頼政墓
(平等院)



歴史めぐり源頼朝



宇治川
宇治川

「宇治川先陣の碑」は、宇治川の中州(塔の島)にある(府立宇治公園内)

JR奈良線「宇治駅」から徒歩10分
京阪電車宇治線「宇治駅」から徒歩10分






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