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平等院の塔頭最勝院にある源頼政の墓。 頼政は、源頼光を祖とする摂津源氏(参考:六孫王神社)。 平清盛に信頼されて、平家政権下で清和源氏としては突出した従三位に叙せられ、源三位(げんざんみ)と呼ばれた。 |
1180年(治承4年)4月9日、頼政は息子の仲綱とともに三条高倉御所を訪れ、以仁王に「源頼朝らの源氏を味方にして平家を討ち滅ぼすこと」を申し入れた。 それに応じた以仁王は、藤原宗信に命じて令旨を発布させると、源行家を東国へと向かわせ、まずは、伊豆国の源頼朝に令旨を伝え、その後、他の源氏にも伝えるよう手配。 しかし、以仁王と頼政の平家討滅の計画は5月の初旬には平家方に露見し、以仁王は三井寺に入り頼政と合流するが、僧兵が少ないことから、5月26日、東大寺・興福寺のある南都へと向う。 その途中、以仁王が疲労して落馬したため平等院で休息をとるが、平知盛、維盛ら2万の軍勢に追いつかれ合戦となった。 頼政は宇治橋の橋板を落とし、平等院に籠もって抵抗したが、子の仲綱、兼綱、仲宗が討死、頼政も自害。 頼政が宇治で防戦している間、以仁王は南都へと向かったが、南山城の加幡河原で平氏家人の藤原景高・伊藤忠綱らの追討軍に追いつかれて討たれた。 |
宇治橋 |
扇の芝 (頼政終焉の地) |
頼政の家臣通圓は、宇治橋東詰にある通圓茶屋の創業者。 平等院の戦いで頼政とともに戦死したのだという。 |
頼政の側室菖蒲御前は、頼政が平等院で討死にすると、郷里の伊豆へ戻り、西琳寺の弥勒堂の下に草庵を結んで頼政の菩提を弔ったのだという。 |
平等院は藤原道長の別荘「宇治殿」を子の頼通が寺としたのが始まり。 鳳凰堂(阿弥陀堂)は華やかな藤原時代の貴重な遺構。 |
宇治市宇治蓮華116 JR奈良線「宇治駅」下車徒歩10分 京阪電鉄宇治線「京阪宇治駅」下車徒歩10分 |
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