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藤原道長は、966年(康保3年)、摂政・関白・太政大臣を務めた藤原兼家の五男(四男とも)。 母は藤原時姫。 |
興福寺 (奈良) |
春日大社 (奈良) |
道長は、藤原不比等の次男・藤原房前を祖とする藤原北家の公卿。 不比等の父は藤原氏の祖・藤原鎌足。 奈良の興福寺は不比等が実質的な創建者。 春日大社は藤原氏の氏神。 |
978年(天元元年)、姉の詮子が円融天皇に入内し、980年(天元3年)に懐仁親王(のちの一条天皇)を出産。 986年(寛和2年)、寛和の変で花山天皇が出家し、一条天皇が即位。 父の兼家が摂政に就任。 |
花山天皇の退位を知っていた安倍晴明~寛和の変~ |
藤原忯子~花山天皇が寵愛した女御~ 藤原忯子の懐妊と死~花山天皇は?父藤原為光は?~ |
源俊賢~藤原道長に仕えた公卿・一条朝の四納言~ 藤原公任~藤原道長に仕えた公卿・一条朝の四納言~ 藤原斉信~藤原道長に仕えた公卿・一条朝の四納言~ 藤原行成~藤原道長に仕えた公卿・一条朝の四納言~ |
987年(永延元年)、源倫子(みなもとのりんし)と結婚。 倫子は、左大臣・源雅信の娘で、道長と結婚したことで鷹司殿と呼ばれるようになる。 雅信は倫子を一条天皇に入内させようと考えていたらしいが、道長に期待していた正室の藤原穆子が強引に道長と結婚させてしまったらしい。 のちに倫子が産んだ娘・彰子は一条天皇の后となり、雅信の土御門邸は道長が継承することに。 |
紫式部は「源倫子にも仕えていた」という説 藤原道長と源倫子~倫子の母藤原穆子は道長の才能を見抜いていた!~ |
源倫子の結婚した頃、源高明の娘・源明子とも結婚していたらしい。 明子は、高松殿に住んで「高松殿」と呼ばれ、娘の寛子は「高松殿女御」と呼ばれた。 高松神明神社は、高松殿の鎮守。 |
990年(永祚2年)7月2日、父兼家が死去。 この年、関白に任じられていたが、任官三日後に発病したのだという。 関白の地位は、生前に嫡男・道隆に譲られている。 以後、摂関は兼家の子孫が独占。 道長の時に全盛を迎えることになる。 |
藤原兼家の葬送 |
父兼家から関白の地位を譲られ、朝政を主導していた兄の道隆が995年(長徳元年)4月10日に死去。 糖尿病だったのだと伝えられている。 死期を悟った道隆は、一条天皇に請うて、関白の地位を嫡男の伊周に譲ろうとしたが実現せず、道隆の死後、関白を継いだのは弟の道兼だった。 ところが、5月8日、道兼は病で死去してしまう。 |
※ | 道隆の娘・定子は一条天皇の皇后。 |
※ | 源頼朝に仕えた下野宇都宮氏は、道兼を祖とするという説がある。 |
酒好きだった藤原道隆~酒の飲みすぎで亡くなった関白~ |
兼家が子らに「藤原公任の影を踏むこともできない」と話すと、道隆と道兼は黙っていたが、道長は「面を踏んでやる」と言い放ったのだとか。 |
面を踏む~才能あふれる公任と道隆・道兼・道長の三兄弟~ 三舟の才~藤原道長の三舟の遊興と藤原公任~ |
花山天皇にふきかけられた肝試しでは道長だけが・・・ |
肝試し~臆病者の道隆・道兼と沈着冷静な道長~ |
道兼が亡くなると、関白をめぐって道長は伊周と対立するが・・・ 姉の詮子(一条天皇の母)が道長を強く推したこともあって、一条天皇は道長の内覧を許し、9月には右大臣に任じたことで、道長が氏の長者に。 詮子は、伊周の異常な昇進に不満を持っていたのだという。 その伊周は996年(長徳2年)、弟の隆家とともに長徳の変を起こして失脚している。 のちに左大臣となった道長は、関白にはならず、太政官の実質的な長官である左大臣のまま権力を行使。 これは、関白や摂政は天皇の後見役であって決裁権がなかったことや、関白・摂政に近い内覧を許されていた事が理由らしい。 |
東三条院(東三条殿)は、摂関家の邸宅。 ここで、道長の長姉・藤原超子は三条天皇を、次姉の詮子は一条天皇を産んでいる。 道長の兄道隆はここで薨去。 道隆没後、伊周との争いに勝って政治の中枢に立った道長は、道隆の怨霊を恐れたのだという。 1029年(長元2年)、東三条殿で病に倒れた道長の子・頼通は、道隆の怨霊が病を惹き起こしたと告げられ、東三条殿から退避したのだとか。 |
白河殿は、藤原良房の別荘がはじまりで、以後、摂関家嫡流が継承し、道長や子の頼通も所有した。 道長の時代には、藤原済時や藤原公任も白河に別業を設け「小白河殿」と呼ばれていたらしい。 |
996年(長徳2年)正月の除目で、道長は越前守を乳母子の源国盛とするが、藤原為時が一条天皇に漢詩を奏上をしたことで、国盛に越前守を辞退させている。 代わって為時が越前守となって越前国へ下向。 娘の紫式部も同行している。 この前年から、越前国には宋の商人・朱仁聡が林庭幹・羌世昌(周世昌)らとともに滞在。 一条天皇と道長は、漢詩に堪能だった為時を越前守にすることで、唐人との交渉を円滑に進めようとしたともいわれる。 |
一条天皇に漢詩を奏上して越前守となった藤原為時 宋人と詩を唱和した紫式部の父・藤原為時 |
紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された紫式部公園には、金色の紫式部像が置かれている。 |
999年(長保元年)、一条天皇のもとへ長女・彰子を女御として入内させ、翌年には皇后とする。 一条天皇の皇后には、彰子より先に兄道隆の娘・定子がいたが、定子は皇后宮、彰子は中宮と呼ばれるようになる。 ここに、一人の天皇が二人の皇后を持つ一帝二后が成立し、以後、皇后の定員は2名となったのだとか・・・ 1008年(寛弘5年)、彰子は道長の邸宅・土御門殿で第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産。 翌年には、第三皇子・敦良親王(後朱雀天皇)を出産している。 |
藤原定子の出産・崩御と平惟仲、平生昌、清少納言、藤原道長 |
彰子が入内した翌年12月16日の明け方、皇后宮の藤原定子が崩御。 六波羅蜜寺に安置された後、27日、鳥戸野(鳥辺野)へ葬送された。 本人の希望により土葬とされたのだという。 |
999年(長保元年)、道長の姉・詮子は土御門殿に遷御。 このとき道長は詮子の御在所で競馬を開催している。 |
東三条院競馬~藤原道長の私的開催と藤原詮子~ |
彰子が入内する際、道長はその調度品として屏風を新調し、色紙形に書く和歌を募った。 第一に選任されたのは和歌に優れた才をもった藤原公任。 藤原高遠・藤原斉信・源俊賢などが和歌を献じ、花山法皇も御製の歌を贈ったのだという。 書は三蹟のひとり藤原行成。 絵は大和絵の第一人者として知られた飛鳥部常則。 ただ、藤原実資は和歌を献じるを拒んだのだとか。 |
大原野神社は、春日大社を勧請して創建された社で、藤原氏は女子が中宮や皇后になると行列を整えて参拝することを通例としていた。 彰子の行列は、目がくらむほどきらびやかで美しいものだったと伝えられている。 |
土御門第跡 (京都御苑) |
枇杷殿跡 (京都御苑) |
彰子には、紫式部や歌人の赤染衛門・和泉式部などが女房として仕えた。 京都御所の周囲には、藤原道長の邸宅・土御門殿や、紫式部が仕えていたという枇杷殿の跡がある。 |
廬山寺 |
誠心院 |
土御門殿の東側には、紫式部の邸宅もあった。 蘆山寺はその邸宅跡とされている。 新京極の誠心院は、和泉式部が初代住職となった寺。 |
金峯山寺 |
金峯神社 |
1007年(寛弘4年)8月11日、道長は自ら書写した法華経などを金峯山(山上の蔵王堂)に埋納。 吉野山の金峯神社に伝わる経筒は、金峯山から出土したもので国宝。 翌年、彰子は敦成親王を産んだ。 2024年(令和6年)には、金峯神社と金峯山寺が所有する道長直筆の「金峯山経塚出土紺紙金字経」が国宝に指定されている。 |
藤原障子の皇子出産と紫式部と源氏物語~『紫式部日記』~ |
藤原道長の御嶽詣~彰子の男児出産を願っての金峯山参詣か?~ 国宝に指定された藤原道長直筆の経巻~吉野山:金峯神社・金峯山寺~ |
道長が金峯山に詣でている頃、道長との政争に敗れた藤原伊周が平致頼に命じて道長を暗殺しようとしているいう噂があったのだという。 平致頼は武勇に秀で、平維衡・藤原保昌・源頼信ととも「道長四天王」の一人に数えられていた武将。 |
権力を夢みた藤原伊周~道長の暗殺計画・呪詛事件そして最期~ 藤原伊周の遺言~娘と息子は伊周の思いに反して~ |
999年(長保元年)の祇園御霊会で、雑芸者の無骨が大嘗祭で使われる標山に似せた作山を製作し、八坂社の社頭で引き回した。 藤原道長は禁止令を出したが、祇園天神の怒りにあい、内裏が焼失してしまい、一条天皇は生母・藤原詮子の御在所(一条院)に遷御したのだと伝えられている。 現在の祇園祭の山鉾巡行は、無骨の作山が起源なのだとか。 |
無骨の山鉾を禁止した藤原道長と祇園天神の怒り |
平安宮 (大内裏) |
内裏跡 |
平安宮は、平安京の宮城。 内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 |
大極殿跡 |
一条院跡 |
当時の内裏は、京都御所の西方2㎞の所にあった。 大極殿は、平安京の大内裏(平安宮・宮城)にあった朝堂院の正殿。 一条院は、一条天皇の里内裏として使用された。 |
八坂神社 |
祇園祭 |
祇園祭は、7月1日から1ヵ月にわたって行われる八坂神社の祭礼。 |
1004年(長保6年)7月、深刻な干魃が続いたため、道長は安倍晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ雨が降ったのだという。 |
晴明神社は安倍晴明を祀る社。 1007年(寛弘4年)、晴明の偉業を讃えるため一条天皇が創建。 |
赤染衛門は、道長の正妻・源倫子や娘の彰子に仕えた女流歌人。 夫・大江匡衡との仲が良く、『紫式部日記』によると、彰子や道長は「匡衡衛門」と呼んでいたのだという。 息子の挙周の出世にも熱心で、倫子に贈った和歌を道長が感動し、挙周を和泉守に任官したのだとか。 |
紫式部が彰子に仕えるようになったのは、1005年(寛弘2年)頃。 道長の目に留まった『源氏物語』は、石山寺で書き始められたのだという。 |
紫式部は「源倫子にも仕えていた」という説 |
「身のうさは 心のうちに したひきて いま九重に 思ひみだるる」 彰子に仕えることになった紫式部が詠んだ歌。 紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された紫式部公園に紫式部歌碑が建てられている。 |
渡殿の紫式部の局の戸をたたく藤原道長(越前市・紫きぶ七橋) 御産養の夜、中宮(彰子)の前に対座し静かに御簾をあげる紫式部(越前市・紫きぶ七橋) 御産養の盛儀を覗き見て感激する夜居の僧(越前市・紫きぶ七橋) 道長から賀の歌を求められる紫式部(越前市・紫きぶ七橋) 御五十日の祝いの宵、若宮に餅を供する道長(越前市・紫きぶ七橋) 新造の竜頭鷁首の舟を下見する道長(越前市・紫きぶ七橋) |
平安時代には石山詣が盛んに行われ、藤原道綱母・清少納言・和泉式部・赤染衛門・菅原孝標女などが参詣している。 |
清水詣・石山詣・初瀬詣~平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺~ |
1008年(寛弘5年)5月、土御門邸では藤原彰子の安産祈願のための法華三十講が行われた。 彰子に仕えていた紫式部・大納言の君・小少将の君は、それぞれの思いを和歌にのせている。 |
紫式部の歌~妙なりや・・・5月5日の法華経第5巻~ 紫式部の歌~紫式部と大納言の君の篝火の歌~ 紫式部の歌~菖蒲の歌:小少将の君と紫式部の贈答歌~ |
藤原彰子の懐妊と藤原道長の法華三十講と紫式部 彰子の里下がりと安産祈願の五壇の御修法 |
1008年(寛弘5年)11月、出産のため土御門邸に里下がりしていた藤原彰子は、内裏(一条院)に還御するまでの間に草子作りを始めた。 この草子は、紫式部の『源氏物語』と推測されている。 また、11月1日には、皇子の「五十日の祝い」で藤原公任が紫式部を「若紫」と呼ぶ記事が載せられ、これが『源氏物語』が文献上で初登場した日とされている。 |
藤原障子の皇子出産と紫式部と源氏物語~『紫式部日記』~ 御草子作り~藤原彰子のもとで清書された『源氏物語』:紫式部日記~ 藤原公任と紫式部~源氏物語の初登場と古典の日:紫式部日記~ 紫式部の歌~源氏物語について交わした藤原道長との贈答歌~ |
藤原彰子の出産~敦成親王誕生:紫式部日記~ 敦成親王誕生5日目の御産養~紫式部日記~ 一条天皇の土御門殿行幸、敦成親王と対面~紫式部日記~ 敦成親王誕生の五十日の祝い~源氏物語初登場の日:紫式部日記~ |
1009年(寛弘3年)正月、道長と藤原彰子、そして彰子が生んだ敦成親王(のちの後一条天皇)を呪詛する事件が発覚。 首謀者は藤原伊周の叔母・高階光子(伊周の母高階貴子の妹)。 光子は、一条天皇の皇后・定子が生んだ敦康親王の乳母だったといわれる。 |
呪詛された藤原道長~犯人は藤原伊周の叔母・高階光子~ 敦成親王・藤原彰子・藤原道長の呪詛事件 |
1010(寛弘7年)4月の賀茂祭でのこと。 一条大路の桟敷で斎院の行列を見物していた藤原道長は・・・ 桟敷の前を過ぎる選子内親王(大斎院)に二人の孫(のちの後一条天皇と後朱雀天皇)を抱えて 「宮たちを見てください」 と申し上げると、選子内親王は合図を送ったのだという。 参考までに、紫式部の弟・藤原惟規は、選子内親王に仕えていた斎院中将を恋人としていたらしい。 |
賀茂斎院は、賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)に巫女として仕えた斎院(斎王)の御所。 |
1011年(寛弘8年)6月13日、病床に臥していた一条天皇は、居貞親王(三条天皇)に譲位し、6月22日に崩御。 一条天皇は譲位に当たって、定子が産んだ第一皇子の敦康親王を皇太子にと望んでいたが・・・ 藤原行成に彰子が産んだ第二皇子の敦成親王(のちの後一条天皇)を立てるよう進言されて諦めたのだという。 三条天皇は、冷泉天皇の第二皇子。 母は道長の姉・超子。 花山天皇の異母弟。 道長は、皇太子時代の三条天皇に入内させていた次女の妍子(けんし)を中宮とするが、三条天皇は、皇太子妃として入内していた藤原娍子(せいし)を皇后としている(一帝二后)。 天皇親政を望む三条天皇と道長との関係はよくなかったらしい・・・ |
※ | 皇太子時代の三条天皇には、道長の異母妹・綏子が入内していた。 |
一条天皇は、皇后宮だった藤原定子と同じく土葬を望んでいたが、道長は火葬を終えてからその事を思い出したのだという。 遺骨は東山の円成寺に安置された後、1020年(寛仁4年)6月16日に円融寺に改装された。 一条天皇の円融寺陵は龍安寺内にある。 |
藤原彰子の歌~撫子を手に取る幼い我が子を見て詠んだ歌~ 藤原彰子と藤原実資を取次役を務めた紫式部 |
若宮八幡宮は道長の側近として活躍し「朝家の守護」と呼ばれた源頼光の邸跡。 頼光は、道長の土御門殿再建時に家具・調度のすべてを献上しているのだとか。 |
唐崎神社は日吉大社の摂社。 藤原道綱の母の『蜻蛉日記』・藤原実資の『小右記』・紫式部の『源氏物語』にも登場する祓いの霊場。 1012年(長和元年)9月17日、道長は唐崎の祓に出かけている。 |
1014年(長和3年)、三条天皇が眼病を患うと、道長は譲位を迫った。 1016年(長和5年)正月、三条天皇は、娍子が産んだ敦明親王を皇太子とすることを条件に道長の要求に応じ、道長を摂政に任じた。 そして、2月7日、彰子が産んだ敦成親王(後一条天皇)が即位。 三条天皇は翌年5月9日に崩御している。 ただ、道長は、皇太子となった敦明親王に「壺切御剣」(つぼきりのみつるぎ)を渡さないなどの圧力を加え、敦明親王も次期天皇を諦め皇太子を放棄。 道長は、敦明親王を准太上天皇として太上天皇に准じた扱いをし、娘の寛子(かんし)を嫁させている。 敦明親王の皇太子放棄により皇太子となったのは、彰子が産んだ一条天皇の第三皇子・敦良親王。 1018年(寛仁2年)には、五女の威子(いし)を後一条天皇の中宮とし、道長一族の最盛期を迎える。 10月16日の立后の日に行われた祝宴では 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」 と詠んだのだという。 |
※ | 壺切御剣は、皇太子に相伝される護り刀。 |
※ | 太上天皇は皇位を譲った天皇の尊号。 |
※ | 道長の歌は、藤原実資の『小右記』によって伝えられた。 |
「めづらしき 光さしそふ さかづきは もちながらこそ ちよもめぐらめ」 この歌は、後一条天皇が生まれて七日目の祝(お七夜)に紫式部が詠んだもの。 「祝宴の杯は望月と同じように欠ける事がなく、若宮の栄光も永遠に続くことでしょう」 道長の望月の歌は、この歌を真似て詠んだものという説がある。 |
望月の歌~三后を娘たちで占めた藤原道長の栄華と紫式部の歌 摂政・関白と摂関政治(藤原氏の政治) |
1017年(寛仁元年)3月、摂政を長男の頼通に譲った道長は、12月には太政大臣に任じられた。 ただ、太政大臣の就任は、後一条天皇元服の加冠役をするためであり、すぐに辞している。 政界を退いた後も、頼通の後見役として影響力を持ち続けたが、1019年(寛仁3年)3月、病となり出家。 東大寺で受戒して行観(後に行覚)と名乗り、土御門殿の東側に法成寺を建立 。 晩年を法成寺で暮らしたが、1025年(万寿2年)には三女の寛子・六女の嬉子が 亡くなり、1027年(万寿4年)には三男の顕信と次女の妍子を失った。 道長は、妍子の四十九日法要が行われた夜から床に伏し、1027年(万寿4年)12月4日、死去(享年62)。 鳥辺野で火葬された遺骨は、藤原一族の墳墓「宇治陵」に葬られた。 |
堀河院(堀河殿)は、左大臣・藤原顕光が伝領した邸宅。 顕光の次女で三条天皇の第一皇子・敦明親王の妃となった藤原延子は、堀河殿で敦明親王とともに暮らしていたが・・・ 道長の三女・寛子に敦明親王を奪われ、悲嘆のあまりに病に伏して亡くなった。 その後、寛子・嬉子・妍子が続けて死去するが・・・ 延子と顕光の怨霊が現れたとも伝えられる。 |
藤原顕光と藤原延子の怨霊に祟られた藤原道長の娘たち |
道長は、晩年を法成寺で過ごしたため「御堂殿」と呼ばれ、のちに「御堂関白」と称されるが関白にはなっていない。 法成寺の阿弥陀堂で阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手にして最期を遂げたのだという。 |
関白にならなかった御堂関白・藤原道長~内覧と摂政と関白~ |
浄妙寺は、宇治木幡の宇治陵に藤原道長が建立した寺。 宇治陵に埋葬された道長の墓は、浄妙寺周辺にあったといわれる。 |
藤原道長の出家と最期 |
吉田神社は、藤原兼家・藤原時姫・藤原詮子・一条天皇ゆかりの社。 道長の法成寺と吉田神社を崇めることは興福寺と春日大社を崇めるのと同じともいわれたらしい。 |
平等院は、藤原道長の別荘「宇治殿」を子の頼通が寺とした。 宇治殿は、光源氏のモデルとされる源融の別荘が始まりで、宇多天皇・源重信を経て道長が手に入れた。 鳳凰堂(阿弥陀堂)は、法成寺の阿弥陀堂を参考にしたのだという。 |
千本ゑんま堂 |
長谷寺 |
千本ゑんま堂は、1017年(寛仁元年)、道長の後援で比叡山の恵心僧都源信の門弟・定覚が光明山歓喜院引接寺として開かれた。 1024年(万寿元年)、道長は長谷寺を参詣しているのだという。 |
長安寺 |
逢坂の関 |
長安寺は逢坂の関付近にあったという関寺の霊跡。 1025年(万寿2年)、清水寺から遣わされた関寺の霊牛と結縁するため道長・源倫子・藤原頼通・藤原教通が参拝。 そのため、逢坂の関は関寺詣で大賑わいとなったのだという。 |
1023年(治安3年)、道長が高野山参詣を行うと、摂関家や上皇の参詣が盛んに行われるようになったのだという。 |
日本の七夕行事は、冷泉家の七夕行事「乞巧奠」が原形といわれる。 冷泉家の祖は、鎌倉で和歌を指導した冷泉為相で道長の子孫。 源実朝の和歌の師・藤原定家の孫。 母は阿仏尼。 鎌倉の浄光明寺は、為相の旧蹟。 鶴岡八幡宮の七夕まつりは、冷泉家の「乞巧奠」をもとに催されている。 |
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