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刀伊の入寇(といのにゅうこう)は、1019年(寛仁3年)に起きた古代日本における最大の外敵侵攻事件。 「刀伊」(とい)とは賊のことで、当時の朝鮮半島の人々が賊のことを「東夷」(とい)と呼んでいたのを日本の文字にあてたもの。 刀伊の入寇の中心となったのは、当時、中国大陸(高麗国の北東沿岸)で勢力を拡大していた女真族(じょしんぞく)。 朝鮮半島を南下した刀伊は、3月27日に50隻の船団を組んで対馬に来襲。 殺人や略奪を繰り返した刀伊は、その後、壱岐に来襲。 壱岐守・藤原理忠が討死している。 そして、4月9日には博多が襲われた。 これを撃退したのが、大宰権帥だった藤原隆家と大宰大監だった大蔵種材ら。 博多への上陸ができなかった刀伊は、4月13日、肥前国松浦郡を襲ったが、松浦党の源知に撃退され、朝鮮半島へ撤退。 約半月にわたる刀伊の入寇で、364人が殺害され、1300人近くが拉致され、牛馬の被害は380匹に達したと伝えられている。 |
女真族には、自分たちが農耕に従事するという習慣はなく、他国から拉致してきた人を使って農耕を行わせていたのだという。 対馬や壱岐を襲った女真族は、牛馬や犬を殺して食べ、老人や子供を殺し、労働力となる男女を拉致。 壱岐での生存者は35名だったらしい。 その後、撃退された女真族は、朝鮮半島でも海賊行為を繰り返しているが、高麗の大軍によって撃退されている。 その際、拉致された日本人約300人が保護され、日本に送還されている。 |
外敵の侵攻の報告を受けた朝廷は、当初、高麗が攻めてきたと考えていたのだという。 現地で戦った者たちも賊が何者であるか分かっていなかったらしい。 戦後、高麗は拉致された日本人を送還しているが、朝廷は「敵を欺くための行動である」と疑い、何の返礼もしなかったのだとか。 ただ、藤原隆家は高麗使節の労をねぎらい、少なくない金品を渡して感謝の気持ちを伝えたらしい。 |
刀伊を退けた藤原隆家は、996年(長徳2年)に兄の伊周とともに花山法皇を襲った長徳の変を起こした公卿。 「さがな者」(荒くれもの)と称され、藤原道長も一目置いていた人物。 1012年(長和元年)頃から眼病を患い、交流のあった藤原実資の薦めもあって、1014年(長和3年)に宋の名医の治療を受けるため大宰権帥の職を引き受けたのだという。 道長は反対したそうだが、同じ頃に眼病を患っていた三条天皇の後押しもあったのだとか。 刀伊を撃退した隆家は、12月に大宰権帥を辞して帰京。 帰京後、大臣あるいは大納言への登用を求める声もあったが、隆家に昇進の沙汰はなかったのだという。 |
藤原隆家に従って活躍したのは、九州武士団と東国から派遣された武士団。 高望王流桓武平氏で常陸国伊佐郡を本貫としていた平為賢は、海賊も恐れて逃げ出すという猛者だったらしい。 刀伊の入寇後、肥前国鹿島藤津荘に土着して肥前伊佐氏の祖となった。 |
刀伊の入寇では、恩賞が不十分だったことで武士の台頭を招き、摂関政治が終わったともいわれる。 |
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参考までに、鎌倉時代にも外敵の侵攻(元寇)があったが、恩賞に関する問題で御家人が困窮し、鎌倉幕府滅亡へとつながっていった。 |
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