|
藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、関白内大臣・藤原道隆の四男。 母は高階貴子。 979年(天元2年)誕生。 |
990年(永祚2年)5月、祖父の兼家が病で関白を辞すと、父の道隆が関白となり、10月には一条天皇に入内していた姉の定子が中宮となる。 道隆のもとで兄の伊周とともに急速に出世し、995年(長徳元年)4月には権中納言に任ぜられる。 しかし、間もなく父道隆が薨去。 さらに5月、叔父の道兼も薨去。 兄の伊周は叔父の道長と政権を争うが敗北。 叔母の詮子(一条天皇の母)が伊周より優れた資質をもった道長を強く推したことが背景にあるらしい。 |
藤原兼家 |
↓
|
↓
|
↓
|
||||
↓
|
↓
|
酒好きだった藤原道隆~酒の飲みすぎで亡くなった関白~ |
伊周が道長との政権争いに敗れた後・・・ 7月末、隆家の従者が道長の従者と都大路で乱闘するなどの事件を起こし、8月2日には道長の従者・秦久忠を隆家の従者が殺害している。 さらに、母高階貴子の父高階成忠が道長を呪詛しているという噂も流れた。 翌年正月には、伊周が通っていた藤原為光の娘・三の君の屋敷に通い始めた花山法皇を、伊周と隆家が待ち伏して襲い、従者が法皇の衣の袖を弓で射抜いてしまう(長徳の変)。 花山法皇は四の君のところに通っていたのだが、伊周は自分の思い人三の君のところに通っていると勘違いしたのだという。 この事件をきっかけに、伊周は大宰府に、隆家は出雲国へ左遷されている。 母の高階貴子は、間もなく病に倒れて薨去。 懐妊中の中宮定子(姉)は里第二条宮に退出して出家し、12月、一条天皇の第一皇女となる脩子内親王を出産している。 |
※ | 隆家は勅により出雲国までは行かず但馬国に留まったらしい。 |
高階貴子の歌~明石にいる息子・藤原伊周を思って詠んだ歌~ 藤原伊周の歌~播磨国左遷と栄花物語「浦々の別」~ |
一条院は、藤原師輔の屋敷で、子の伊尹・為光に受け継がれたが、佐伯公行が為光の娘・寝殿の上から取得し、詮子に献上したのだという。 寝殿の上は、伊周の思い人だった三の君のこと。 |
寝殿の上と藤原儼子~藤原伊周と花山法皇と長徳の変~ |
997年(長徳3年)4月5日、朝廷は詮子の病気が一向に快復しないことから大赦を発する。 これにより伊周と隆家は罪を赦されて帰洛するが、二度と権力の座につくことはなかった。 999年(長保元年)、定子が第一皇子の敦康親王を出産し、立太子に望みがかけられたが・・・ 1008年(寛弘5年)、道長の長女・彰子が第二皇子・敦成親王を出産したことで望みは絶たれた。 |
『大鏡』によると、大赦によって帰京した隆家は、賀茂詣の折に道長と同じ車に乗せられ、配流の一件について弁明されたのだとか。 賀茂詣は、賀茂祭(葵祭)の前日に摂関が賀茂神社(上賀茂神社と下鴨神社)を詣でる行事。 |
1012年(長和元年)頃から眼病を患い、1014年(長和3年)、宋の名医に治療を受けるという名目で大宰権帥となる。 道長は反対したそうだが、同じ頃に眼病となった三条天皇の同情があったのだという。 在任中の1019年(寛仁3年)には、刀伊の来襲を撃退。 同年、任を辞して帰京。 刀伊を撃退したことで昇進を求める声もあったが、昇進の沙汰はなかった・・・ |
その後、再び大宰権帥に任ぜられ、1042年(長久3年)に辞任。 1044年(長久5年)1月1日薨去(66歳)。 |
平清盛の継母で源頼朝の命を救った池禅尼は、長男・良頼の子孫。 源義経の母・常盤御前が再婚した一条長成、後鳥羽天皇の生母・藤原殖子、源実朝の正妻坊門姫は次男・経輔の子孫。 |
清少納言の『枕草子』によると・・・ 隆家が姉の定子を訪れたときのこと。 隆家が素晴らしい扇の骨を入手したことを話すと、定子は「それはどんな骨ですか」と尋ねる。 隆家が「誰も見たことがない骨」と答えると、清少納言は「きっと海月(くらげ)の骨でしょう」と言ったのだとか。 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
|