紫式部「光る君へ」


高階貴子
藤原道隆の妻・藤原伊周・定子の母


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 高階貴子(たかしなのきし・たかこ)は、関白藤原道隆の妻。

 父は高階成忠。


 989年(永延3年)、夫の道隆が内大臣、翌年には関白となり、長女の定子一条天皇の中宮となる。

 長男の伊周も昇進を続け、994年(正暦5年)には内大臣に。

 貴子自身も関白の妻・中宮の母として栄達し、父の高階成忠は従二位と朝臣の姓を賜った。

 しかし、995年(長徳元年)、夫の道隆が病で亡くなり、跡を継いだ道隆の弟の道兼も間もなく病死。

 その後の政争で伊周が叔父の道長に敗れたことで、道長が政権を握ることに。

 そして翌年、伊周と隆家は、花山法皇に矢を射るという事件を起こして左遷された(長徳の変)。

 貴子は、出立の車に取り付いて同行を願ったが許されず、間もなく病に伏し、10月に薨去。



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~貴子の子・隆円~

 貴子が産んだもう一人の男子・隆円は、延暦寺で修行し、定子の葬送に際しては大雪の中で

 「ふるさとにゆきも帰らで君ともに同じ野辺にてやがて消えなむ」

 と詠んだのだという。

 一条天皇の剃髪に奉仕し、埋葬の際には納棺に奉仕。

 清少納言の『枕草子』には「僧都の君」として登場。

 1015年(長和4年)2月4日没。



リンクボタン隆円の歌~姉藤原定子の葬送の際に詠んだ歌~





~貴子の子・御匣殿~

 御匣殿は、姉の定子に御匣殿別当として仕えた。

 定子の死後は、定子の遺児の母代りとなり、一条天皇の寵愛を受けて懐妊するが、 1002年(長保4年)6月3日、妊娠したまま没した。





~貴子の子・原子~

 原子は、三条天皇の東宮時代(皇太子時代)の妃。

 父道隆が薨去し、兄の伊周隆家も失脚すると、姉の定子、妹の御匣殿のあとを追うように1002年(長保4年)8月3日に死去。





~貴子の妹・光子~

 光子は、一条天皇の皇后・定子が生んだ敦康親王の乳母だったといわれる。

 1009年(寛弘3年)正月、道長彰子・敦成親王(のちの後一条天皇)を呪詛したとして官位を剥奪されている。



リンクボタン呪詛された藤原道長~犯人は藤原伊周の叔母・高階光子~





~東宮になれなかった敦康親王~

 貴子の先祖・高階師尚は、斎宮・恬子内親王と在原業平の密通によって生まれたの子という伝承がある。

 敦康親王は、藤原行成の「外戚の高階家は伊勢神宮に憚るところがある」という進言があって、東宮(皇太子)になれなかったのだとか。



リンクボタン東宮になれなかった敦康親王~伊勢物語と外戚・高階氏~










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