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藤原彰子(ふじわらのあきこ・しょうし)は、藤原道長の長女(988年(永延2年)誕生)。 母は源倫子。 紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏の初恋の人・藤壺は彰子がモデルともいわれる。 |
999年(長保元年)、12歳で一条天皇の女御として入内。 翌年、皇后となる。 ただ、彰子が入内した時、一条天皇には、藤原道隆(道長の兄)の娘・定子が入内していたため、定子は皇后宮、彰子は中宮と呼ばれるようになる。 |
藤原兼家 |
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平安時代の内裏(御所)は、現在の京都御所の西方にあった。 大極殿は大内裏(平安宮・宮城)にあった朝堂院の正殿。 彰子が居所とした飛香舎は、京都御所に復元されている。 |
一条院は、一条天皇の里内裏で、藤原道長や中宮彰子の宿泊所もあった。 |
大原野神社は、春日大社を勧請して創建された社で、藤原氏は女子が中宮や皇后になると行列を整えて参拝することを通例としていた。 彰子の行列は、目がくらむほどきらびやかで美しいものだったと伝えられている。 |
999年(長保元年)の祇園御霊会で、雑芸者の無骨が大嘗祭で使われる標山に似せた作山を製作し、八坂社の社頭で引き回した。 藤原道長は禁止令を出したが、祇園天神の怒りにあい、内裏が焼失してしまい、一条天皇は生母・藤原詮子の御在所(一条院)に遷御したのだと伝えられている。 現在の祇園祭の山鉾巡行は、無骨の作山が起源なのだとか。 |
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祇園祭は、7月1日から1ヵ月にわたって行われる八坂神社の祭礼。 |
一条天皇の時代は女流文学が花開いた時代。 清少納言は、993年(正暦4年)頃から皇后定子に仕え、紫式部は1007年(寛弘4年)頃に中宮彰子に仕えた。 紫式部と同じ頃、歌人の赤染衛門や和泉式部も彰子に仕えている。 |
「身のうさは 心のうちに したひきて いま九重に 思ひみだるる」 彰子に仕えることになった紫式部が詠んだ歌。 『源氏物語』の評判を知った藤原道長が娘の彰子に仕えさせたのだという。 歌碑は、紫式部が若い時に暮らしていた越前市にある紫式部公園のもの。 |
石山寺は紫式部が『源氏物語』を書き始めた寺。 平安時代には石山詣が盛んに行われ、藤原道綱母・清少納言・和泉式部・赤染衛門・菅原孝標女などが参詣している。 |
1008年(寛弘5年)9月11日、道長の邸宅・土御門殿で第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産。 翌年11月25日には、第三皇子・敦良親王(後朱雀天皇)を出産した。 |
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京都御所の周囲には、藤原道長の邸宅・土御門殿や、紫式部が仕えていたという枇杷殿の跡がある。 |
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土御門殿跡の東側に蘆山寺は紫式部の邸宅跡とされている。 新京極の誠心院は、和泉式部が道長から法成寺内に賜った一庵を始まりとしている。 |
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1008年(寛弘5年)に彰子が懐妊する前年の8月11日、道長は自ら書写した経を金峯山(山上の蔵王堂)に埋納している。 人々は彰子の懐妊を「金峯山の御霊験」と噂したのだとか。 吉野山の金峯神社に伝わる経筒は、金峯山から出土したもので国宝。 |
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皇后・定子や彰子の後宮サロンと並びたっていたのが選子内親王の大斎院サロン。 清少納言は『枕草子』に理想的な宮仕え先として、内裏・后宮・斎院御所(賀茂斎院)を挙げている。 紫式部は『紫式部日記』で、弟の藤原惟規の恋人・斎院中将の手紙を読んで批判もしているが・・・ 選子内親王の人柄や、斎院御所が風雅で神々しさのあることは認めている。 |
彰子が敦成親王(後一条天皇)を出産したことで、道長の威信が強まる中、窮地に立たされたのが敦康親王。 敦康親王は、999年(長保元年)に皇后宮定子が産んだ一条天皇の第一皇子。 一条天皇は、敦康親王を皇太子に望んでいたらしいが・・・ 母の定子は敦康親王を産んだ翌年、媄子内親王を出産した直後に崩御。 藤原行成の奏上により、彰子が敦康親王の養母となり、道長が後見役となる。 母の倫子も育児に関わっていたのだという。 媄子内親王は、藤原詮子(東三条院)の養女として育てられることに。 敦康親王は愛情をもって養育されていたが、後見役の道長は、養育とは別の意味で奉仕していたらしい・・・ 1009年(寛弘6年)正月30日、円能という僧が彰子と敦成親王を呪詛していたことが発覚。 首謀者は、定子や藤原伊周の叔母・高階光子だった。 この事件で光子は処分され、翌年には伊周も亡くなったことで、敦康親王は後ろ盾を失ってしまう。 この事件は、敦康親王に痛手を与えるために仕組まれたものとする説がある。 |
1011年(寛弘8年)6月13日、病が重くなった一条天皇が居貞親王(三条天皇)に譲位。 譲位には道長の圧力があったのだという。 皇太子については、藤原行成に説得されて敦康親王の立太子を諦め、敦成親王を立太子させることにしている。 そして、6月22日に崩御。 彰子は、敦康親王を無視して敦成親王を皇太子にしようとする道長に対して激怒していたのだと伝えられている。 一条天皇の譲位についても聞かされていなかったらしい・・・ 一条天皇に先立たれ、幼い子を抱えた24歳の彰子は、 「見るままに 露ぞこぼるる おくれにし 心も知らぬ 撫子の花」 と詠んだのだとか。 |
1016年(長和5年)、三条天皇が譲位したことで敦成親王が即位(後三条天皇)。 道長が幼い後一条天皇の摂政として権勢を振るうことに。 1018年(寛仁2年)には、叔母の威子(いし・道長の娘・彰子の同母妹)が中宮となり、道長一族は最盛期を迎えた。 藤原実資の『小右記』が伝えるところにによると道長は、 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」 と詠んだのだという。 しかし、道長は翌年、病により出家。 彰子は、弟の頼通らと協力して摂関政治を支えることになる。 |
※ | この頃、紫式部の娘・賢子(大弐三位)が彰子に出仕し、のちに後冷泉天皇の乳母となっている。 |
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1026年(万寿3年)正月19日、落飾して法号を清浄覚とし、一条天皇の生母・藤原詮子の東三条院にならって上東門院を称した。 彰子が里邸としていた土御門殿(道長の邸宅)は、上東門第とも呼ばれていた。 1030年(長元3年)には、道長が建てた法成寺内に東北院を建てて、晩年を東北院で過ごした。 そのため、東北院とも呼ばれるようになる。 |
東北院は、彰子(上東門院)の発願で藤原道長の法成寺東北の一郭に建立された常行三昧堂を始まりとする寺院。 浄土寺真如町に移転するまでは、本禅寺・清浄華院・蘆山寺辺りにあったものと考えられている。 |
1031年(長元4年)7月25日、彰子は藤原頼通らとともに石清水八幡宮を参詣するため出発。 その行列は華やかで美しかったらしい。 |
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25日の夜から明け方にかけて石清水八幡宮を参詣した彰子は、27日には摂津国に入り、翌日、住吉大社と四天王寺を参詣している。 |
晩年の彰子には不幸が続く・・・ 1036年(長元9年)4月17日、後一条天皇が崩御。 敦良親王(後朱雀天皇)が即位するが、後朱雀天皇は1045年(寛徳2年)正月18日に崩御。 10年の間に二人の子に先立たれたが、妹たちにや孫たちにも先立たれた。 1025年(万寿2年)には嬉子、1027年(万寿4)には妍子、1036年(長元9年)には威子を亡くしている。 1068年(治暦4年)には後朱雀天皇の子・後冷泉天皇が、1073年(延久5年)には同じく後三条天皇が崩御。 そして、弟の藤原頼通が1074年(延久6年)2月2日に薨去(83歳)。 長命を悲しんでいたという彰子は、同年(承保元年)10月3日、法成寺阿弥陀堂で崩御(87歳)。 鳥辺野で荼毘に付され、遺骨は宇治木幡の宇治陵に埋葬された(浄妙寺)。 |
東三条院(東三条殿)は、摂関家の邸宅。 ここで、道長の長姉・藤原超子は三条天皇を、次姉の詮子は一条天皇を産んでいる。 一条天皇の即位後、皇太后となった詮子は、東三条院と呼ばれた。 |
彰子に仕えた和泉式部は、法成寺東北院の一角に一庵を賜ったのだという。 それが和泉式部が初代住職を務めた誠心院の始まりとなる。 |
平等院は藤原道長の別荘「宇治殿」を子の頼通が寺としたのが始まり。 鳳凰堂(阿弥陀堂)は、法成寺の阿弥陀堂を参考にしたのだという。 |
浄妙寺は、宇治木幡の宇治陵に藤原道長が建立した寺。 室町時代に廃絶し、道長や彰子の埋葬地も不明。 |
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