紫式部「光る君へ」


三条天皇
冷泉天皇の第二皇子
生母は藤原超子


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 三条天皇は冷泉天皇の第二皇子。

 母は藤原兼家の長女・藤原超子

 976年(天延4年)1月3日)誕生。

 諱は居貞(おきさだ)。



村上天皇
62代円融天皇

円融天皇
64代
 
冷泉天皇
63代

一条天皇
66代
 
三条天皇
67代
 
花山天皇
65代





~一条天皇の皇太子~

 986年(寛和2年)、異母兄の花山天皇兼家道兼父子の謀により山科の元慶寺で出家(寛和の変)。

 兼家の次女・藤原詮子が産んだ一条天皇が即位。

 居貞親王(三条天皇)は一条天皇の東宮(皇太子)となるが、居貞親王の方が年長のため「さかさ儲けの君」といわれる。



リンクボタン両統迭立の皇位継承~冷泉系と円融系~



元慶寺
リンクボタン元慶寺

 花山天皇が出家した元慶寺は、868年(貞観10年)、藤原高子の発願により遍昭が開いた寺院。



リンクボタン花山天皇の退位を知っていた安倍晴明~寛和の変~





~藤原道長が政権を掌握~

 990年(永祚2年)、外祖父の兼家が薨去。

 995年(長徳元年)には、兼家の長男・道隆が薨去し、間もなく三男の道兼も薨去。

 道隆の嫡男・伊周が兼家の五男・藤原道長との政争に敗れたことで、道長が政権を掌握する。



リンクボタン関白にならなかった御堂関白・藤原道長~内覧と摂政と関白~





~即位~

 991年(正暦2年)、藤原済時の娘・藤原娍子が入内。

 994年(正暦5年)、娍子が第一皇子となる敦明親王を出産。

 1010年(寛弘7年)、道長の次女・藤原妍子が入内。

 1011年(寛弘8年)6月13日、病床に臥していた一条天皇が居貞親王(三条天皇)に譲位し、6月22日に崩御。

 皇太子には道長の長女・藤原彰子が産んだ敦成親王(のちの後一条天皇)が立てられている。

 一条天皇は、道隆の長女・藤原定子が産んだ第一皇子の敦康親王を東宮(皇太子)に望んでいたが、藤原行成の進言により諦めたのだという。



皇太子時代の三条天皇には、兼家の娘・綏子や道隆の娘・原子も入内したが早世している。



リンクボタン東宮になれなかった敦康親王~伊勢物語と外戚・高階氏~





~退位・崩御~

 三条天皇が即位した翌年、早期退位を願う道長妍子を中宮とする。

 これに対し、天皇親政を志す三条天皇が娍子を皇后宮に立てたことで、道長と三条天皇の対立が決定的なものとなった。

 1014年(長和3年)、三条天皇が眼病を患うと、道長はしきりに譲位を迫るようになる。

 さらに2年連続で内裏が焼失したこともあって、病状が悪化。

 1016年(長和5年)正月、三条天皇は、娍子が産んだ敦明親王を皇太子とすることを条件に道長の要求に応じ、2月7日、彰子が産んだ敦成親王(後一条天皇)が即位。

 三条天皇は翌年5月9日に崩御している(42歳)。

 ただ・・・

 道長は、皇太子となった敦明親王に「壺切御剣」(つぼきりのみつるぎ)を渡さないなどの圧力を加え、敦明親王も皇太子を辞退。

 道長は、敦明親王を准太上天皇として太上天皇に准じた扱いをし、娘の寛子(かんし)を嫁させている。

 敦明親王の皇太子辞退により皇太子となったのは、彰子が産んだ一条天皇の第三皇子・敦良親王だった。


(参考)
リンクボタン藤原顕光と藤原延子の怨霊に祟られた藤原道長の娘たち





京都御苑:枇杷殿跡
リンクボタン枇杷殿跡

 1015年(長和4年)、2度内裏を失った三条天皇は、藤原道長所有の枇杷殿に遷御。

 三条天皇が退位したのは枇杷殿だった。



三条天皇北山陵
リンクボタン三条天皇北山陵



一条天皇 火葬塚
リンクボタン三条天皇火葬塚

 三条天皇は、鹿苑寺の北の巌陰で火葬されたのだという。










東三条院址
リンクボタン東三条殿址

 藤原超子は、東三条殿(東三条院)で三条天皇を出産。

 藤原詮子一条天皇を産んでいる。

 藤原妍子の御所、一条天皇の中宮・藤原彰子が産んだ後朱雀天皇里内裏としても使用された。 



京都御苑:枇杷殿跡
リンクボタン枇杷殿跡

 枇杷殿は、中宮・藤原妍子里内裏として使用した邸宅。

 三条天皇も内裏が焼失した際には遷御している。



京都:高松神明神社
リンクボタン高松神明神社

 高松神明神社は、源高明が造営した高松殿の鎮守。

 藤原道長と結婚した高明の娘明子は、ここに住んで高松殿と呼ばれた。

 三条天皇の皇子・敦明親王の御所ともなり、道長の娘で敦明親王の妃となった寛子は、高松殿女御と呼ばれている。



大極殿跡
リンクボタン大極殿跡

 大極殿は、平安京の大内裏(平安宮・宮城)にあった朝堂院の正殿。

 伊勢神宮に奉仕する斎王(斎宮)は、伊勢に赴く際、大極殿で天皇から「別れの御櫛」を挿してもらったのだという。

 1014年(長和3年)9月20日、三条天皇の第一皇女・当子内親王が斎王(斎宮)として伊勢へ赴くことに。

 「別れの御櫛」に臨んだ三条天皇は、互いに振り返ってはならない決まりにもかかわらず、別れがたさから思わず振り返ってしまったのだとか。



斎宮邸跡
リンクボタン斎宮邸跡

 斎宮邸は、斎王(斎宮)の居所で、西京高校がその跡地の一つとされている。



禎子内親王陵
リンクボタン禎子内親王円乗寺東陵

 藤原妍子が産んだ第三皇女の禎子内親王は、後朱雀天皇の皇后となった。

 龍安寺内には、後朱雀天皇の円乗寺陵と禎子内親王の円乗寺東陵がある。










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