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関白にならなかった藤原道長
内覧と摂政と関白


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 995年(長徳元年)は、藤原道長にとって順風が吹き始めた年。

 4月10日、関白だった長兄・道隆が薨去。

 酒の飲みすぎによる糖尿病だったらしい。

 次兄の道兼が関白となるが5月8日に薨去。

 猛威を振るっていた疫病が原因らしい。

 そして、5月11日、一条天皇道長に内覧の宣旨を下し、6月19日には右大臣に任命した。

 これにより、道長が氏の長者となる。

 道隆の嫡男・伊周は道長と権力の座を争っていたが・・・

 一条天皇の生母で道長の姉の詮子が道長を強く推したのだという。

 翌年、伊周長徳の変を起こして失脚すると、道長は左大臣となっている。



~内覧と摂政と関白~

 内覧とは、太政官で作成された文書を天皇に奏上する前に見ることができる役目のことで、摂政に準ずる地位。

 摂政は、天皇が幼い時に天皇の権限を代行する役職。

 関白は、成人した天皇を補佐する役職で、摂政とともに臣下がつくことのできる最高の職位。

 一条天皇は成人しているので、道長は関白となるべきだが、何故ならなかったのか?

 それは、内覧に拘ったから。

 摂政には内覧の役目があるが、関白には内覧の権限が与えられていなかった。

 すでに道長は、太政官の実質上の長官である左大臣であり、内覧を兼任することによって最高権力を行使しようと考えたらしい。

 1011年(寛弘8年)に三条天皇が即位するが、三条天皇も成人していたため関白にはなっていない。

 関白にはならなかった道長だが、長く関白同様の地位にあったため「御堂関白」と称されている。

 晩年、道長法成寺を建立して「御堂殿」と呼ばれていた。


 参考までに・・・

 1016年(長和5年)に後一条天皇が即位すると、8歳の後一条天皇の摂政となっている。



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