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藤原道兼(ふじわらのみちかね)は、関白太政大臣・藤原兼家の三男。 母は藤原時姫。 961年(応和元年)誕生。 兄弟姉妹に道隆・超子・道綱・道綱母養女・詮子・道義・道長。 一条朝の四納言と称された藤原公任の妻(村上天皇の孫)は、道兼の養女として公任に嫁いでいる。 |
藤原兼家 |
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984年(永観2年)、円融天皇が花山天皇に譲位すると、伯父・伊尹の子義懐が花山天皇を補佐して権勢を奮うことに。 しかし、985年(寛和元年)、花山天皇は寵愛していた女御の藤原忯子を亡くし、出家を考えはじめた。 父の兼家は、道兼を使って娘の詮子が産んだ懐仁親王に譲位させようと画策。 986年(寛和2年)6月23日、道兼は花山天皇を内裏から抜け出させ、山科の元慶寺まで連れていって出家させた(寛和の変)。 道兼も一緒に出家する約束だったが、 「まだ父に出家の事を告げていないので、出家前の姿を一目見せてから・・・」 と言って寺を立ち去ったのだとか。 花山天皇の出家によって、懐仁親王(一条天皇)が即位。 義懐は失脚。 父兼家は摂政に就任。 道兼も次々に昇進し、989年(永祚2年)には正二位・権大納言となった。 |
花山天皇が出家した元慶寺は、868年(貞観10年)、藤原高子の発願により遍昭が開いた寺院。 |
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990年(永祚2年)5月、父兼家が病で関白を辞し、兄の道隆を後任にして、7月2日に薨去。 道兼は、兼家が寛和の変で功のあった自分ではなく、兄を関白にしたことを憎み、喪中にもかかわらず遊興に耽っていたのだと伝えられている。 995年(正暦6年)4月3日、病に伏した道隆が関白を辞し、4月6日に出家、10日に薨去した。 道隆は、嫡子の伊周を後継者にしようとしていたが、関白となったのは道兼だった。 ところが、就任後間もなく道兼は病に伏し、5月8日に没した(享年35)。 |
河内源氏の祖で源頼朝の先祖・源頼信は、道兼や道長に仕えた。 |
源頼朝に仕えた下野宇都宮氏は道兼の後裔とも。 道兼→兼隆→兼房→宗円(宇都宮氏の祖) |
紫式部の娘・賢子(大弐三位)は、道兼の次男・兼隆と結婚。 誕生した女子は源良宗の室となっている。 |
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