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藤原忯子(ふじわらのしし・よしこ)は、藤原為光の娘。 母は藤原敦敏の娘。 984年(永観2年)、花山天皇に望まれて入内し、弘徽殿女御(こきでんのにょうご)と呼ばれる。 忯子の実姉は、花山天皇の外戚として権勢を奮った藤原義懐の正室だった。 義懐が忯子の父・為光を説得して入内が叶ったのだという。 その後、花山天皇の寵愛を受けた忯子は懐妊するが、985年( 寛和元年)7月18日に急死。 忯子の死後、悲しみのあまり出家を考えるようになった花山天皇は・・・ 藤原兼家の謀略にかかり、翌年、兼家の三男・道兼に出家を勧められ、山科の元慶寺で出家してしまう(寛和の変)。 |
花山天皇に寵愛された忯子は、父の藤原為光が建立した法住寺に葬られた。 忯子の兄藤原斉信の娘も法住寺に葬られている。 |
花山天皇が出家した元慶寺は、868年(貞観10年)、藤原高子の発願により遍昭が開いた寺院。 |
晩年、花山法皇が隠棲した花山院菩提寺の麓には、藤原忯子と仕えていた11人の女官の十二妃の墓が建てられている。 |
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~忯子の妹と長徳の変~ |
忯子の妹の一人・三の君(寝殿の上)は、藤原伊周の思い人。 もう一人の妹・四の君(藤原儼子)は、出家した花山法皇が通っていた娘。 996年(長徳2年)1月16日、伊周と弟の隆家が花山法皇を襲った長徳の変は・・・ 花山法皇が四の君のところに通っているのを、三の君のところに通っていると勘違いして起こったのだという。 |
一条院は、佐伯公行が三の君(寝殿の上)から取得し、一条天皇の生母・藤原詮子に献上されたのだという。 |
花山法皇の崩御後、四の君(藤原儼子)は、藤原道長の次女・妍子に仕え、その後、道長の妾になっている。 1016年(長和5年)1月21日、道長の子を産んだが死産で母子ともに死去。 |
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