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藤原妍子(ふじわらのけんし・きよこ)は、藤原道長の次女。 母は源倫子。 994年(正暦5年)誕生。 1010年(寛弘7年)、居貞親王(のちの三条天皇)に入内。 1012年(寛弘9年)、前年に即位した三条天皇の中宮となる。 1013年(長和2年)、禎子内親王を出産。 1017年(寛仁元年)、三条天皇が崩御。 妍子は、1027年(万寿4年)9月14日崩御(享年34)。 道長は、天皇の外戚として摂関の地位を確保しようとして妍子を入内させたが、妍子が皇子を出産することはなかった。 禎子内親王は、後朱雀天皇の皇后となっている。 |
1011年(寛弘8年)、三条天皇が即位すると、翌年、道長は妍子を中宮とする。 これに対し、三条天皇は、藤原娍子を皇后宮とした。 娍子の立后の儀式の日・・・ 道長は「同日は中宮妍子の参内の日である」として出席せず、多くの公卿が道長に従って妍子の御所となっていた東三条殿に集まってしまう。 道長の嫌がらせによって、儀式に参列したのは、娍子の弟・藤原通任と藤原実資・藤原隆家・藤原懐平の公卿のみだったのだとか。 |
1018年(寛仁2年)、妹の威子が後一条天皇の中宮(皇后)となったことで、道長の娘たちが三后を占めることに。 太皇太后(彰子)・皇太后(妍子)。 藤原実資の『小右記』が伝えるところによると・・・ 栄華を極めた道長は、 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」 と詠んだのだという。 |
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平安時代の内裏(御所)は、現在の京都御所の西方にあった。 大極殿は大内裏(平安宮・宮城)にあった朝堂院の正殿。 妍子が居所とした飛香舎は、京都御所に復元されている。 |
枇杷殿は、藤原氏の邸宅。 三条天皇の崩御後、妍子は禎子内親王とともに枇杷殿に住み、禎子内親王が後朱雀天皇に入内するのを見とどけて崩御したのだという。 枇杷殿には、妍子の姉・彰子に仕えていた紫式部も出仕していた。 |
東三条殿は、摂関家の邸宅。 妍子の御所としても使用された。 |
浄妙寺は、宇治木幡の宇治陵に藤原道長が建立した寺。 妍子は宇治陵に葬られ、道長や姉の彰子も宇治陵に葬られている。 しかし、浄妙寺は室町時代に廃絶し、妍子らの埋葬地も不明。 |
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