紫式部「光る君へ」


後朱雀天皇
一条天皇の第三皇子
生母は藤原彰子


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 後朱雀天皇(ごすざくてんのう)は一条天皇の第三皇子。

 母は藤原道長の長女・藤原彰子

 1009年(寛弘6年)12月14日、道長の邸宅・土御門殿で誕生。

 諱は敦良(あつなが)。



一条天皇

後一条天皇
(母・彰子)
 
後朱雀天皇
(母・彰子)



 1017年(寛仁2年)、兄の後一条天皇の皇太子だった敦明親王(三条天皇の第一皇子)が、皇太子を辞退したことを受けて皇太子となる。

 1021年(寛仁5年)、道長の六女で叔母の藤原嬉子が入内。

 嬉子は、1025年(万寿2年)8月3日に親仁親王(のちの後冷泉天皇)を産んだが、2日後の8月5日に薨去。

 1027年(万寿4年)、三条天皇の第三皇女で道長の次女・妍子が産んだ禎子内親王が入内。

 禎子内親王は、1029年(長元2年)に良子内親王、1032年(長元5年)に娟子内親王、1032年(長元7年)に尊仁親王(のちの後三条天皇)を産んでいる。

 1036年(長元9年)、後一条天皇が崩御したことを受けて敦良親王が即位。

 皇太子には、嬉子が産んだ親仁親王が立てられた。

 禎子内親王は中宮となるが・・・

 翌年、関白・藤原頼通道長の嫡男)が養女の藤原嫄子を入内させて中宮としたことで、禎子は皇后宮となる。

 このころから摂関家と禎子との関係は悪化。

 1039年(長暦3年)、藤原教通(道長の五男)の長女・生子が入内。

 1042年(長久3年)、藤原頼宗(道長の次男)の次女・延子が入内。

 嫄子・生子・延子が皇子を産むことはなかったが、禎子内親王と皇子の尊仁親王は摂関家から冷遇され、内裏に入ることもままならなかったのだという。

 1045年(寛徳2年)1月16日、後朱雀天皇が崩御(37歳)。

 里内裏だった東三条殿で病に倒れた後朱雀天皇は、尊仁親王を後冷泉天皇の東宮(皇太子)とする遺詔を発したといわれている。

 その陰には、禎子内親王と尊仁親王を陰で支えていた藤原能信(道長の四男)の働きがあったのだという。



嫄子の実父は、藤原定子が産んだ一条天皇の第一皇子・敦康親王

生子の母は藤原公任の娘。

延子の母は藤原伊周の娘。



平安宮内裏昭陽舎跡
リンクボタン平安宮内裏昭陽舎跡

 昭陽舎は、東宮時代の円融天皇が居住したと伝えられ、敦良親王(後朱雀天皇)の居所として用いられて以後、東宮御所として定着した。





後朱雀天皇円乗寺陵
リンクボタン後朱雀天皇円乗寺陵

 後朱雀天皇の陵墓は、龍安寺内にある円乗寺陵。



一条天皇 円融寺北陵
リンクボタン一条天皇
円融寺北陵
禎子内親王陵
リンクボタン禎子内親王
円乗寺東陵


 龍安寺内には、後朱雀天皇の父・一条天皇円融寺北陵や、皇后・禎子内親王の円乗寺東陵もある。





京都御苑:土御門第跡
リンクボタン土御門殿址


 土御門殿は、藤原道長の邸宅。

 後一条天皇と後朱雀天皇の母・藤原彰子は、土御門殿で二人を出産している。



東三条院址
リンクボタン東三条殿

 東三条殿は、摂関家の邸宅。

 後朱雀天皇の父一条天皇は東三条殿で誕生した。

 一条天皇の生母・藤原詮子は、東三条院と呼ばれている。










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