紫式部「光る君へ」


敦康親王
一条天皇の第一皇子
生母は藤原定子



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 敦康親王(あつやすしんのう)は、一条天皇の第一皇子。

 母は皇后・藤原定子

 999年(長保元年)11月7日誕生。

 同年、藤原道長の長女・藤原彰子が一条天皇に入内し、翌年には中宮となっている。





~母・定子の死~

 敦康親王は、誕生の翌年に親王宣下を受けるが、その年の12月16日、母の定子が崩御。

 藤原行成の奏上により中宮・藤原彰子が養母となって育てられることに。

 藤原道長も後見役となり、彰子の母・源倫子も育児に関わっていたのだという。

 定子の妹・御匣殿が養育を託されていたとも伝えられるが、御匣殿は1002年(長保4年)6月3日に没している。





~東宮(皇太子)になれなかった~

 敦康親王は彰子に愛情をもって養育されていたが・・・

 後見役の道長は、彰子が皇子を産むことができなかった場合に備えて奉仕していたらしい。

 1008年(寛弘5年)9月11日、彰子土御門殿で第二皇子の敦成親王(後一条天皇)を出産すると、道長は敦康親王の養育を放棄。

 1010年(寛弘7年)には、伯父の藤原伊周が薨去したことで、敦康親王は後ろ盾を失ってしまう。

 1011年(寛弘8年)6月13日、病が重くなった一条天皇が居貞親王(三条天皇)に譲位。

 一条天皇は、敦康親王を東宮(皇太子)にと望んでいたが、藤原行成に説得されて敦成親王を皇太子にすることとしたのだという。

 第一皇子が皇太子になれないのは異例のこと。

 彰子は、敦康親王を無視して敦成親王を皇太子にしようとする道長に対して激怒していたのだと伝えられている。

 一条天皇は6月22日に崩御。

 1013年(長和2年)、敦康親王は具平親王(村上天皇の第七皇子)の次女を娶るが、1018年(寛仁2年)12月17日薨去(20歳)。

 藤原頼通の養子となっていた娘の嫄子は、後に後朱雀天皇に入内している。



~東宮になれなかったのは外戚のせい~

リンクボタン東宮になれなかった敦康親王~伊勢物語と外戚・高階氏~





~道長の呪詛を命じた高階光子~

 高階光子は、定子の母高階貴子の妹で敦康親王の乳母だったといわる。

 1009年(寛弘3年)正月、道長彰子・敦成親王(のちの後一条天皇)を呪詛したとして官位を剥奪されている。



リンクボタン呪詛された藤原道長~犯人は藤原伊周の叔母・高階光子~





~光源氏のモデル?~

 敦康親王の母・藤原定子は、紫式部『源氏物語』の主人公・光源氏の母・桐壺更衣のモデルといわれる。

 とすると、父の桐壺帝一条天皇がモデルなのかも。

 そして光源氏は・・・

 美男だったという敦康親王がモデルということもあるのかもしれない。











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