中世歴史めぐり


藤原行成
藤原道長に仕えた公卿
一条朝の四納言


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 藤原行成(ふじわらのゆきなり・こうぜい)は、右少将・藤原義孝の長男。

 母は、源保光の娘。

 972年(天禄3年)誕生。

 一条天皇の時代に秀才として知られた四納言の一人。



藤原伊尹

懐子

花山天皇

義孝

行成





~花山天皇に仕える~

 誕生後、祖父で摂政・藤原伊尹の猶子となるが、翌年、伊尹が薨去。

 974年(天延2年)には父の義孝も死去。

 不遇な幼少期を送ったが、982年(天元5年)、庇護を受けていた外祖父・源保光の邸宅・桃園邸で元服。

 やがて、祖父・伊尹の長女・懐子が産んだ花山天皇の近くに外戚として仕えるようになり昇殿も許された。

 986年(寛和2年)、花山天皇は藤原兼家の謀により出家して退位(寛和の変)、一条天皇が即位するが、源保光の庇護もあってそれなりの出世を続けている。



醍醐天皇

代明親王

源保光

有明親王

源泰清

行成室





~蔵人頭・右大弁~

 995年(長徳元年)、蔵人頭だった源俊賢が参議に昇進するが、後任の蔵人頭には俊賢の推挙で行成が任ぜられた。

 異例の抜擢で皆が驚いたそうだが、一条天皇は行成の力量を認めていたらしい。

 翌年には権左中弁に任じられ、さらに左中弁に昇格。

 998年(長徳4年)、左大弁・源扶義の薨去に伴ない、空席となった右大弁に任じられる。

 藤原道長は、正妻・源倫子の従兄弟・源相方も右大弁を望んでいることを告げたが、行成は道長に反論して右大弁を得たのだという。





~藤原道長に接近~

 999年(長保元年)、道長の長女・藤原彰子一条天皇に入内。

 道長は、中宮・藤原定子に対抗するため、彰子を皇后にすることを画策。

 行成が一条天皇に意見を具申したのだという。

 翌年、彰子は皇后となる。

 そして、定子は皇后宮、彰子は中宮と呼ばれるようになる。

 道長は、子の代まで兄弟のような処遇をすると約束したのだとか。

 1000年(長保2年)12月16日、皇后宮・定子が崩御すると・・・

 翌年、中宮・彰子を定子が産んだ敦康親王の養母とすることを一条天皇に奏上。

 これは、敦康親王を皇太子にしたい一条天皇と、まだ娘の彰子が皇子を出産していない道長の利害を一致させるためだったのだという。

 こうして、行成は道長からも一目置かれる存在となるが、この年、太政官の参議に昇進。

 太政官の長は左大臣の道長

 蔵人頭として一条天皇の側近であった時とは異なり、道長に接近する必要性を感じた行成は、1005年(寛弘2年)頃から私的に道長邸へ訪問するようになる。

 そのため、藤原実資からは、同じように訪問していた藤原斉信らとともに「道長の従者になり下がった」と批判されている。


道長の姉・藤原詮子は、行成邸で崩御している。





~敦成親王が皇太子に~

 1008年(寛弘5年)、彰子が道長の土御門殿で一条天皇の第二皇子・敦成親王を出産し、翌年には第三皇子の敦良親王も誕生。

 彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を出産したことで、窮地に立たされたのが、定子が産んだ第一皇子の敦康親王

 1009年(寛弘6年)正月30日、円能という僧が彰子と敦成親王を呪詛していたことが発覚。

 首謀者は、定子藤原伊周の叔母・高階光子だった。

 この事件で光子は処分され、翌年には伊周も亡くなったことで、敦康親王は後ろ盾を失ってしまう。

 1011年(寛弘8年)、重病となった一条天皇は、三条天皇に譲位。

 敦康親王を皇太子にしたい一条天皇は、行成に相談するが・・・

 行成は、道長の賛成が得ることは不可能であり、政変を起こす可能性があるとして、敦成親王を皇太子に立てるよう進言したのだという。

 間もなく一条天皇は崩御。

 敦康親王は1018年(寛仁2年)に亡くなっている。





~権大納言・薨去~

 1016年(長和5年)、三条天皇後一条天皇に譲位。

 翌年には道長が摂政左大臣を辞任し、嫡男の頼通が摂政となる。

 1020年(寛仁4年)、権大納言に昇進。

 1027年(万寿4年)正月より体調を崩し、12月4日に薨去(56歳)。

 同日、道長も薨去している。









~一条朝の四納言~

 一条天皇の時代に活躍した源俊賢藤原公任藤原斉信・藤原行成は、「一条朝の四納言」と呼ばれた。





~桃園邸・世尊寺~

 世尊寺は、1001年(長保3年)、行成が邸宅の桃園邸に創建した寺院。

 桃園邸は、清和天皇の第六皇子貞純親王の邸宅が始まりで、醍醐天皇の第三皇子代明親王、源保光、藤原師氏、藤原近信、藤原伊尹、藤原行成へと伝えられた。

 花山天皇は桃園邸で生まれたともいわれる。

 行成の後裔は世尊寺家を名乗っている。





~「三蹟」数えられた行成の書~

 行成は能書家として三蹟の一人に数えられた。

 書道世尊寺流の祖。



石清水一の鳥居
リンクボタン一の鳥居の額
(石清水八幡宮)

 石清水八幡宮一の鳥居の「八幡宮」の額は、一条天皇の勅により行成成が書いたものを・・・

 のちの1619年(元和5年)、松花堂昭乗が行成の筆跡のとおりに書写したものだという。



八幡宮の額
リンクボタン鶴岡八幡宮楼門の額

 鎌倉の鶴岡八幡宮楼門に掲げられた額も行成の字を写したものなのかもしれない。



清水寺仁王門
リンクボタン清水寺仁王門の額

 清水寺仁王門の正面に掲げられている「清水寺」の額は、行成の筆と伝えられている。





~清少納言の歌~

 清少納言は、行成がよこした文に対して

 「夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」

 と詠んでいる。

 「夜が明けないうちに、鶏の鳴きまねをして門を開けさせようとしても、逢坂の関は開きません(あなたには逢いません)」

 ということらしい。



清少納言歌碑
リンクボタン清少納言歌碑
(泉涌寺)

 泉涌寺には、この歌の歌碑が建てられている。










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