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石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)は、「やわたのはちまんさん」として多くの信仰を集める社。 京都盆地南西、木津川・宇治川・桂川の合流点近くの男山(鳩ヶ峰)の山上に鎮座する。 859年(貞観元年)、豊前国の宇佐神宮(現:大分県)に籠もった南都大安寺の僧・行教が、 「吾れは都の近くの男山に移座して国家を鎮護したい」 という八幡神のお告げを受けて勧請したのがそのはじまり。 京都の裏鬼門を守護する神社として朝廷・公家・武家の尊崇を集め、979年(天元2年)に円融天皇が行幸すると、以後、多くの天皇が行幸するようになる。 三の鳥居付近には藤原道長が建てた仏塔があったのだという。 道長の姉藤原詮子や娘藤原彰子は、石清水八幡宮から住吉大社・四天王寺を参詣している。 藤原彰子に仕えた紫式部は『源氏物語』に、藤原定子に仕えた清少納言は『枕草子』に登場させた。 一条天皇は、一の鳥居の「八幡宮」の額を藤原行成に書かせている。 源氏は氏神として信仰し、源義家は石清水八幡宮で元服して「八幡太郎義家」を名乗った。 義家の子孫で平家を都落ちさせた木曽義仲も石清水八幡宮を参拝して元服したのだという。 源頼義・源頼朝によって創建された壺井八幡宮や鶴岡八幡宮をはじめ、各地に石清水八幡宮が勧請されている。 徳川家康が崇敬したという伊賀八幡宮は、源頼義が伊賀国に石清水八幡宮を勧請して創建した社を遷座したともいわれる。 9月14日・15日の石清水祭は、上賀茂神社と下鴨神社の例祭(賀茂祭(葵祭))・春日大社の例祭(春日祭)とともに三大勅祭のひとつ。 |
中御前 |
応神天皇 (おうじんてんのう) 誉田別尊 (ほんだわけのみこと) |
西御前 |
比淘蜷_ (ひめおおかみ) 多紀理毘賣命 (たぎりびめのみこと) 市寸島姫命 (いちきしまひめのみこと) 多岐津比賣命 (たぎつひめのみこと) |
東御前 |
神功皇后 (じんぐうこうごう) 息長帯比賣命 (おきながたらしひめのみこと) |
平安京の鬼門と守護・鎮護の神仏 石清水八幡宮で元服した木曽義仲〜平家物語〜 |
一の鳥居 |
頓宮 (本殿御神霊の御旅所) |
高良神社 (仁和寺の法師の伝説) |
五輪塔 (航海記念塔) |
頼朝松 (源頼朝ゆかりの松) |
放生川の安居橋 (石清水祭の舞台) |
景清塚 |
松花堂跡 |
石清水社・石清水井 |
三の鳥居と一ッ石 |
南総門 |
社殿 |
エジソン記念碑 |
谷崎潤一郎文学碑 |
大宰府符 |
「大宰府符」は、紫式部の夫となる藤原宣孝の自筆署名があるもの。 |
一の鳥居の額 |
阿吽の鳩 (楼門蟇股) |
日本西門鎮守八幡宮 |
亀山八幡宮 |
日本西門鎮守八幡宮は、壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を祀る赤間神宮の摂社。 行教が宇佐神宮の分霊を京都男山へ勧請する際、日本西門の守護神として創建したのだという。 亀山八幡宮が鎮座する亀山には、宇佐神宮の神託により行宮が設けられたのだとか。 |
石清水八幡宮に参籠した日に、社殿で三寸の霊剣を賜った夢を見た河内源氏二代目の源頼義。 夢から覚めると枕元には小剣が置かれていた。 この霊夢を見た月に妻が懐妊し、誕生したのが源義家。 義家の生年は、はっきりとしないが、1039年(長暦3年)という説が有力。 その後、7歳となった義家は、石清水八幡宮の神前で元服して「八幡太郎」と称したのだという。 |
義家は河内国の香炉峰の館で誕生。 香炉峰は頼義によって壺井と改められ、石清水八幡宮を勧請して壺井八幡宮が創建されている。 |
『枕草子』〜雪のいと高う降りたるを・香炉峰雪簾撥看〜 |
娘の小式部内侍を失い、この世の無常を思った和泉式部。 自らの往生を願い、播磨国圓教寺の性空に「女性が西方極楽浄土に往生する道」を尋ねると・・・ 性空は、八幡大菩薩が阿弥陀如来の化身であることから、石清水八幡具宮の参詣を勧めたのだという。 しかし、八幡大菩薩は「今は神であって仏の道は忘れた」と告げ、誓願寺で祈ることを勧めたのだとか。 その後、和泉式部は誓願寺で出家。 藤原道長から法成寺の塔頭・東北院の一角に一庵を賜ったのだという(のちの誠心院)。 |
1063年(康平6年)、源頼義が前九年の役の勝利に感謝するため、鎌倉の由比郷に石清水八幡宮を勧請し、由比若宮を創建した。 その後の1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵を果たして鎌倉に入った源頼朝は、先祖頼義が創建した由比若宮を小林郷に遷座した。 それが現在の鶴岡八幡宮の始まり。 しかし、頼朝が崇敬した鶴岡八幡宮は、1191年(建久2年)に焼失してしまう。 頼朝は、すぐさま再建に取りかかり、その年末には新たな社が創建された。 頼朝は、京より伶人を招いて、石清水八幡宮の神霊を迎える儀式を行っている(参考:御鎮座記念祭)。 |
〜八幡大菩薩と清水観音に救われた頼朝と常盤の子たち〜 |
1159年(平治元年)の平治の乱後、源義朝の側室常盤御前は、今若(阿野全成)、乙若(源義円)、源義経(牛若)連れて幼少の頃より信仰していた清水寺に参り、千手観音(子安塔)に三人の子の無事を祈願したという。 『平治物語』(学習院本)には、常盤と三人の子が助けられたのは清水観音の力によるもので、源頼朝が死罪を免れて伊豆蛭ヶ小島に流罪となったのは八幡大菩薩(石清水八幡宮)の力によるものだと述べられている。 |
石清水八幡宮に伝えられてきた「源頼信告文」(写)によると、頼信の祖父経基は、陽成天皇の子元平親王の子だという。 これが事実だとすると頼信の子孫源頼朝は、清和源氏ではなく陽成源氏だということになる。 |
源頼朝は清和源氏ではないのか? |
仁和寺のある法師が、かねてからの念願だった石清水八幡宮に参詣したときのこと。 法師は、麓の極楽寺や高良神社に参詣して、石清水八幡宮とはこれだけのものかと思って帰ってしまった。 帰った後、仲間の僧に・・・ 「念願の石清水八幡宮に詣でることができた。 前々から聞いていたのにも増して尊いものだった。 ただ、参詣者が山へ登っていったのは何事かあったのだろうか。 私も見たいと思ったが神に参拝することが目的であったので、山までは登らなかった」 と語ったのだという。 |
石清水八幡宮は、紫式部の『源氏物語』〜玉鬘の巻〜で筑紫から京都に戻った玉鬘が最初に参詣した社。 |
清少納言は『枕草子』に素晴らしい神として・・・ 松尾大社・石清水八幡宮・大原野神社・春日大社・平野神社・水分神社・上賀茂神社・下鴨神社・伏見稲荷大社を挙げている。 |
八幡市八幡高坊30 京阪「八幡市駅」から男山ケーブルで3分 |
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