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御 鎮 座 記 念 祭
〜鎌倉:鶴岡八幡宮の御神楽〜

編集:yoritomo-japan.com








御鎮座記念祭(御神楽)


 1191年(建久2年)3月4日の火災によって焼失してしまった鶴岡八幡宮を再建した折、源頼朝は京より伶人・多好方(おおのよしかた)を招いて、石清水八幡宮の神霊を迎える儀式を行いました。

 それを記念して執行されるのが「御鎮座記念祭」。

 再建がなった11月21日を新暦に換算した12月16日に行われています。

 宵には、その精神と手振りを今日に再現した「御神楽」が奉仕されます。



御鎮座記念祭(御神楽)

御鎮座記念祭
御神楽
10:00〜
17:30〜










〜建久2年の鎌倉大火〜

 『吾妻鏡』によれば・・・

 1191年(建久2年)3月3日、鶴岡八幡宮では法会(上巳の節句)があり、箱根の稚児10人が舞いました。

 又、臨時祭では、馬長十騎、流鏑馬十六騎、相撲十六番が奉納され、源頼朝も参詣し、夕方には無事終了しました。



御鎮座記念祭(御神楽)



 頼朝御所に戻った後も、供奉した御家人たちは侍所に残っていましたが、その中に広田次郎邦房という御家人がいました。

 邦房は御家人たちの前でこう予言します。

 「明日、鎌倉に大火災が起こり、若宮(鶴岡八幡宮)も御所もその難を逃れることはできないだろう」と。

 しかし、誰も本気にはしませんでした。

 ところが・・・

 翌3月4日は、南風が強く吹き荒れ、午前2時頃、小町大路の辺りで失火がありました。

 強風にあおられた火は、北条義時、大内惟義、比企朝宗、佐々木盛綱、一品房昌寛、仁田忠常、工藤行光、佐貫広綱など御家人10人の屋敷を焼きます。

 さらに、火は鶴岡八幡宮流鏑馬馬場に建てられたばかりの五重塔に移り、御所、神殿、回廊、経所が悉く灰燼と化してしまいました。

 供僧坊のいくつかも延焼を免れることはできなかったそうです。 


 鶴岡八幡宮五重塔は、源頼朝の母由良御前の供養のために、1189年(文治5年)に建てられたばかりでした。





〜御神楽〜

御鎮座記念祭(御神楽)


 舞殿北側に篝火が焚かれ、巫女が「宮人曲」に合わせて舞い、神職による「人長舞」が奉仕されます。

 『吾妻鏡』によると、多好方が「宮人曲」を唄うと、神が感応するほどのめでたい出来事の前ぶれだとして、頼朝も感激したのだといいます。

 多好方は、遷宮の日に「宮人曲」を唄わせるため、頼朝が京都から招いた雅楽家。

 畠山重忠梶原景季は、頼朝の命で、好方から神楽の曲を習ったのだと伝えられています。





〜上巳の節句〜

 上巳の節句は、雛まつりの起源となった節会。

 紫式部『源氏物語』では、光源氏が蟄居していた須磨の浜で上巳の禊を行っている。



上巳の節句










手斧始式
リンクボタン手斧始式

 正月4日に鶴岡八幡宮で行われる「手斧始式」は、建久の大火で焼けた鶴岡八幡宮を再建する際に行われた儀式をその始まりとしているといいます。


石清水八幡宮
リンクボタン石清水八幡宮

 源頼朝が勧請した石清水八幡宮は、京都の裏鬼門の守護神として崇敬され、源氏は氏神として信仰していました。





鶴岡八幡宮
リンクボタン鶴岡八幡宮

 源頼朝は、1180年(治承4年)、由比郷鶴岡の由比若宮を小林郷北山に遷座、鎌倉の街づくりの中心に据えました。
 それが現在の鶴岡八幡宮です。
 以後、歴代の将軍や有力武将の崇敬を集めてきました。


鎌倉市雪ノ下2−1−31
0467(22)0315

鎌倉駅東口より徒歩10分








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