鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉検定 鎌倉の紅葉



二十五坊跡
〜御谷(おやつ)〜

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二十五坊跡


 鶴岡八幡宮裏の「御谷」(おやつ)と呼ばれている所には、鎌倉時代、二十五菩薩にちなんだ二十五坊と別当坊(長官の宿舎)があった。

 二十五坊とは、鶴岡八幡宮寺供僧の住坊のこと。

 供僧(ぐそう)とは、神社に奉仕する社僧。

 二十五坊の僧は、神主よりも上の地位にあり、その長は鶴岡八幡宮寺の別当(長官)となっていた。

 鎌倉幕府滅亡後は衰え、室町時代には七坊にまで減少したが、江戸時代に五坊が復興され十二坊となった。

 明治の神仏分離令によって全て廃されている。

 二十五坊は、源頼朝が上総国より僧定兼を招いて供僧職に命じたことが始まりといわれている。

 定兼は、1180年(治承4年)、罪人として上総に流されていたのを上総介広常によって鎌倉に召し出された。

 その2年後の1182年(寿永元年)9月23日、源頼朝は、初代別当に園城寺の円暁を任命。

 1191年(建久2年)には「供僧二十五口の制」が定められている。



鶴岡八幡宮の別当
天台(寺門系)から真言(東寺系)へ変わった別当職

神仏混淆の宗教施設



リンクボタン鶴岡八幡宮最初の供僧阿闍梨定兼





〜二十五坊〜

善松坊(香象院)
林東坊(荘厳院)
仏乗坊(浄国院)
安楽坊(安楽院)
座心坊(朝宗院)
千南坊(正覚院)
文恵坊(恵光院)
頓覚坊(相承院)
密乗坊(我覚院)
静慮坊(最勝院)
南禅坊(等覚院)
永乗坊(普賢院)
悉覚坊(如是院)
智覚坊(花薗院)
円乗坊(宝瓶院)
永厳坊(紹隆院)
実円坊(金勝院)
宝蔵坊(海光院)
南蔵坊(吉祥院)
慈月坊(慈薗院)
蓮華坊(蓮華院)
寂静坊(増福院)
華光坊(大通院)
真智坊(宝光院)
浄蓮坊(如意院)
二十五坊絵図



二十五坊跡


 二十五坊の初代には、平氏一門とされる者が15名いた。

 その中には、北条時政畠山重忠梶原景時北条義時佐々木高綱が推挙した者もおり、一ノ谷の戦いで捕虜となった平重衡の子息も含まれていたのだという。

 これには、滅亡した平氏一門の者を出家させて近くに置くことで、源氏へ敵対することないよう監督するなどの理由があったのだという。









〜雪ノ下という地名と二十五坊〜


 『吾妻鏡』によれば、1191年(建久2年)2月17日は雪。

 源頼朝は、雪見のために鶴岡八幡宮の別当坊へ渡り、宴会の途中で、佐々木盛綱堀親家らに命じて、山の雪をあつめさせ、それを山陰の日の当たらない所に氷室を作って収めさせた。

 鶴岡八幡宮が鎮座する「雪ノ下」という地名は、この氷室の下に当たることから付けられたといわれている。





〜江島神社辺津宮を開いた良真〜


 良真は、鶴岡八幡宮の供僧。

 江の島で修行をし、源実朝辺津宮の創建を請願したのだという。



江の島
リンクボタン江の島
江島神社辺津宮
リンクボタン辺津宮


リンクボタン源実朝が請来した仏舎利の伝説
(円覚寺舎利殿の仏舎利)





〜和田合戦と二十五坊〜


 1213年(建暦3年)5月2日、大江広元北条義時和田義盛が兵を集めているという報を聞いた北条政子と将軍源実朝の正室坊門姫は・・・

 御所北門から逃れて鶴岡八幡宮別当坊へ避難したのだという(和田合戦)。



和田合戦


リンクボタン『吾妻鏡』が伝える和田合戦





〜源実朝の暗殺と二十五坊〜


 1219年(承久元年)、源実朝を暗殺した公暁は、実朝の首をもって北谷にあった備中阿闍梨(公暁の後見人)の邸へ行き・・・

 実朝の首を握ったまま食事を済ませ、鶴岡八幡宮後方の峰を上って三浦義村邸に向かったのだという。



源実朝の暗殺

北条義時と戌神将の伝説


リンクボタン長尾定景一族墓

リンクボタン源実朝公御首塚(秦野市)

リンクボタン長尾城址


公暁と源実朝の暗殺・・・源氏の滅亡(okadoのブログ)





〜上杉禅秀の乱と二十五坊〜


 1416年(応永23年)に起こった上杉禅秀の乱では、足利持氏に攻められた禅秀らが二十五坊の別当坊に籠もり自刃した。





〜徳川家康と二十五坊〜


 二十五坊は、鎌倉幕府滅亡後は衰退し、七坊までに減少。

 1593年(文禄2年)、徳川家康は、それまで残されていた香象、荘厳、浄国、恵光、相承、我覚、等覚の七院(坊)に、安楽、正覚、最勝、海光、増福の五院(坊)を復興させて十二院(坊)とした。

 十二院のうち九院が御室仁和寺末、三院が紀伊根来寺末だった。 



御室仁和寺末〜

香象、荘厳、浄国、恵光、相承、安楽、正覚、最勝、増福

〜紀伊根来寺末〜

等覚、我覚、海光院





〜相承院と源頼朝遺髪〜


 江戸時代、源頼朝の法華堂は、相承院が管理していた。

 横浜市戸塚区にある平戸白旗神社には、相承院から送られたという「頼朝の遺髪」が伝えられている。



平戸白旗神社
リンクボタン平戸白旗神社
源頼朝の遺髪
リンクボタン源頼朝の遺髪





〜神仏分離令と二十五坊〜


 1868年(慶應4年)3月、明治新政府は神仏分離令を発布。

 明治に改元された10月、供僧・小別当が復飾(還俗)し、神主の大伴氏に対して総神主を称するようになる。

 これにより残されていた十二坊はすべて廃絶。

 復飾した供僧が名乗った姓名は・・・

 善松坊(香象院)−香山良実
 林東坊(荘厳院)−武内康側
 仏乗坊(浄国院)−国司信成
 安楽坊(安楽院)−畠山嘉正
 千南坊(正覚院)−筥崎博尹
 文恵坊(恵光院)−野田信高
 頓覚坊(相承院)−相良亮太
 密乗坊(我覚院)−岡本忠義
 静慮坊(最勝院)−加藤良知
 南禅坊(等覚院)−大島教義
 宝蔵坊(海光院)−海野俊雅
 寂静坊(増福院)−増山尚義

 神仏混淆から神道のみの宗教施設となった鶴岡八幡宮には「僧尼不浄の輩入る可からず」の高札が掲げられ、復飾した供僧が進んで境内の諸堂塔、仏像什器などの仏教に関するもの一切を破棄したのだという。



神仏混淆の宗教施設


浄光明寺大伴家墓所
リンクボタン大伴家墓所
(浄光明寺)
筥崎博尹の墓
リンクボタン筥崎博尹の墓
(寿福寺)


鶴岡文庫の模型
リンクボタン鶴岡八幡宮の模型

 鶴岡文庫に常設展示されている模型は、1591年(天正19年)、豊臣秀吉が作らせた「鶴岡八幡宮修営目論見絵図」(鶴岡八幡宮指図)によるもの。

 鎌倉期の鶴岡八幡宮を窺うことができる。





緑地を守る運動
〜日本初のナショナルトラスト運動〜

 1964年(昭和39年)、二十五坊跡(御谷)の開発に、作家大佛次郎も加わった緑地保全の運動が起こった(御谷騒動)。

 財団法人鎌倉風致保存会が設立され、土地を買収して、緑地の保全に成功した(日本初のナショナルトラスト運動)。

 この運動をきっかけとして古都保存法が制定され、古都の旧跡周辺の環境保全のため、「歴史的風土保存区域」が定められ、特に重要な区域は「歴史的風土特別保存地区」として許可なく現状を変更することができないようにした。

 二十五坊跡はナショナルトラスト運動発祥の地でもある。



リンクボタン御谷騒動(大佛次郎茶亭)

リンクボタン広町緑地

リンクボタン台峯緑地








歴史めぐり源頼朝




鶴岡八幡宮
リンクボタン鶴岡八幡宮

 鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)に源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請して創建した鶴岡若宮を前身とし、1180年(治承4年)に源頼朝が現在地に遷した。

 以後、武家の都「鎌倉」の中心に置かれ、長く武家の崇敬を集めた。 


鎌倉市雪ノ下2−1−31

0467(22)0315

鎌倉駅東口より徒歩10分



鶴岡八幡宮周辺・西御門・二階堂
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。








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