|
佐々木高綱(ささきたかつな)は、近江国蒲生郡佐々木荘を領した近江源氏・佐々木秀義(宇多源氏)の四男。 母は、源為義の娘。 1159年(平治元年)、父秀義が源義朝に従った平治の乱で敗れると、兄の定綱・経高・盛綱は、父ともともに奥州平泉の藤原秀衡を頼って東国へ下り、相模国渋谷庄で渋谷重国に引き留められて庇護を受けた。 高綱は幼少だったため、同行せず、京都の叔母に育てられたのだという。 渋谷重国と佐々木四兄弟 その後、兄の定綱・経高・盛綱とともに伊豆国に流されていた源頼朝に仕えた。 1180年(治承4年)8月17日、頼朝が挙兵。 山木館襲撃では、山木兼隆の後見役だった堤信遠を討ち取った。 8月24日、石橋山の戦いで頼朝は大敗してしまうが、椙山に逃れた頼朝を守るため、加藤景廉・天野遠景・堀親家らとともに奮戦した。 その後、安房国で再挙して、10月20日には富士川の戦いで平家軍を敗走させた頼朝は、佐々木兄弟の佐々木荘を安堵している。 |
※ | 父秀義の母方の伯母は、藤原秀衡に嫁いでいたのだという。 |
※ | 近江源氏は、源雅信(または敦実親王)を祖とする宇多源氏。 |
1184年(寿永3年)1月20日、源義経に従って木曽義仲追討に出陣。 『平家物語』によると・・・ 宇治川の戦いでは、頼朝から「池月」(いけづき:生食)を賜った高綱と、同じく「磨墨」(するすみ)を賜った梶原景季が激しい先陣争いを繰り広げ、高綱が勝って宇治川先陣の名乗りをあげたのだという。 『吾妻鏡』によると・・・ その後、源範頼と源義経に随い、河越重頼・河越重房(重頼の子)・畠山重忠・渋谷重国・梶原景季らとともに後白河法皇が幽閉されていた六条殿に参じて護衛にあたっている。 この年の8月、父秀義は三日平氏の乱で討死した。 |
池月像 (東京大田区・ 洗足池) |
磨墨像 (東京大田区・ 万福寺) |
伝説によると、生食(池月)は、1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をして鎌倉を目指す源頼朝が、洗足池の畔に宿営したときに飛来したのだという。 磨墨は、馬込(東京大田区)の産といわれ、萬福寺の山門前には磨墨像が置かれている。 |
1185年(元暦2年)3月、壇ノ浦の戦いで平家を滅びると、高綱はその功績から、長門・備前・周防などの守護に。 1187年(文治3年)には、周防国で、東大寺の大仏殿建設に必要な材木の切り出しに協力し、頼朝から称賛されている。 1202年(建仁2年)に高野山で出家し、家督を嫡子重綱に譲り、西入(さいきゅう)を名乗る。 1203年(建仁3年)10月、比叡山の堂衆が騒動を起こした際、高野山を下りた高綱は、朝廷の命により鎮圧に向かう兄の経高、盛綱と子の重綱に会っている。 その時、我が子の戦支度を見た高綱は、 「山地戦に見合った格好ではなく、死を免れることはできない」 と、息子の討死を予言したのだという。 その予言どおり、重綱は、この追討戦で戦死した。 出家後の高綱は、全国を行脚したと伝えられ、その道中で親鸞と出会い了智を名乗ったのだという。 1214年(建保2年)11月6日死去と伝えられるが、どこで没したのかは不明。 |
鳥山八幡宮は、佐々木高綱館があった所と伝えられている。 |
高綱が源頼朝から賜った名馬「生食」は、鳥山の地で余生を過ごしたという。 高綱は、「生食」の霊を慰めるために駒形明神を建てたというが、今はなく、その代わりに馬頭観音堂が残されている。 |
三会寺(さんねじ)は、頼朝が高綱に命じて建立させたと伝えられている。 |
日露戦争で旅順要塞を攻略し、日露戦争の英雄として讃えられ、学習院院長を勤めた乃木希典(乃木将軍)は、高綱の次男・野木光綱の末裔だと伝えられている。 光綱は、父高綱、兄重綱を亡くした後、叔父佐々木義清の猶子となって出雲国に住し、野木氏の祖となった。 毛利氏に仕えた乃木氏は、野木氏の末裔だとされ、のちに、その一族から乃木希典が出たのだという。 |
かつて江の島の片瀬海岸に置かれていた乃木大将像。 |
1912年(明治45年)7月30日、明治天皇が崩御。 大喪の礼が執り行われた9月13日、乃木希典は夫人とともに赤坂の自邸で殉死。 乃木神社は、乃木夫妻を祀る社。 |
沙沙貴神社は、近江源氏・佐々木氏発祥の地に鎮座する神社。 |
|