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渋谷重国の居城であった早川城址は、現在、城山公園として整備されている。 早川城址周辺の台地は古代より人々の居住の地として村が造られ、宮久保遺跡からは733年(天平5年)銘の木簡が発見されている。 渋谷氏は、桓武平氏秩父氏の一族で、重国は渋谷荘を本拠として渋谷庄司と称し、綾瀬から大和、藤沢一体を統治した(参考:鶴舞伝説と公所浅間神社)。 『吾妻鏡』によると、1159年(平治元年)、平治の乱で源義朝に味方して敗れた近江源氏の佐々木秀義が、子らを連れて奥州平泉の藤原秀衡を頼るため渋谷荘を通りかかったときに、それを引き止め、以後、約20年間にわたり庇護したのだという。 その間、子の定綱・経高・盛綱・高綱(佐々木四兄弟)は、伊豆に流されていた源頼朝に仕えるようになり、1180年(治承4年)、頼朝が挙兵すると馳せ参じている。 このとき重国は、平家方の大庭景親に付いていたが、のちに頼朝に臣従して御家人に列せられている。 ![]() |
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渋谷氏は、重国の父河崎重家が武蔵国谷盛荘(現在の東京渋谷)から移住したことによりが始まるのだという。 渋谷区の金王八幡宮は重国の祖父基家が創建した。 |
『吾妻鏡』によれば、重国は石橋山の戦い後、定綱・盛綱・高綱の3人が渋谷館へ連れ帰ってきた阿野全成を匿った。 全成は、源頼朝の異母弟で、義経の同母兄。 平治の乱で父義朝が敗れると醍醐寺に預けられていたが、兄の挙兵を聞いて東国に下ってきていた。 間もなく、全成は鷺沼の旅館で頼朝と対面し、供に鎌倉入りを果たしている。 |
阿野全成の墓![]() ![]() (沼津市) |
鷺沼城址![]() (習志野市) |
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※ | 阿野全成は、北条政子の妹保子(阿波局)を妻とし、頼朝の側近として影の活躍をするが、二代将軍頼家への謀反の疑いで捕らえられ討たれた(1203年)。 |
1159年(平治元年)、平治の乱で敗れた源義朝は、わずか八騎で東国へ逃れようとする。 その中に渋谷重国の子金王丸が含まれていた(重国の子か弟という説があるが定かではない。)。 尾張国野間の長田忠致を頼った義朝は、忠致の裏切りに遭い殺されてしまう。 金王丸はその場を脱出し、京へ引き返し、常盤御前に義朝の死を伝え、出家したのだという。 出家した金王丸が、のちに義経を襲撃して殺された土佐坊昌俊であるとする説もあるが定かではない。 |
![]() (東京:渋谷区) |
![]() ![]() (鎌倉市) |
![]() ![]() (綾瀬市) |
![]() ![]() (愛知県美浜町) |
佐々木四兄弟(定綱、経高、盛綱、高綱)は、平治の乱後、渋谷重国に匿われた近江源氏・佐々木秀義の子。 1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵に従い、伊豆国目代の山木兼隆を襲撃した。 定綱、経高、高綱は兼隆の後見人堤信遠を討ち取り、このとき経高の放った矢が頼朝と平氏との戦いの一番矢となった。 そして、兼隆を討ち取ったのは、盛綱と加藤景廉だった。 |
盛綱が勧請![]() (鎌倉市) |
高綱と景季先陣争い![]() (宇治市) |
高綱館址![]() ![]() (横浜市) |
高綱四男信綱の梵鐘![]() (座間市) |
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沙沙貴神社は、近江源氏・佐々木氏発祥の地に鎮座する神社。 |
戦国期に石田三成が居城としたことでしられる佐和山城は、定綱の六男・佐保時綱が建久年間(1190- 1198)に築いた砦が始まりといわれる。 |
早川城址の一角の物見塚の上に、「東郷氏祖発祥地碑」が建てられている。 渋谷氏は、承久の乱での活躍により薩摩に領地を得た。 その一族の一つが日露戦争で連合艦隊を率いた東郷平八郎を生んだといわれている。 |
海老名駅からバス 綾瀬市役所から徒歩10分 |
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