鎌倉手帳(寺社散策)

鎌倉の紅葉 鎌倉殿の13人
特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編 特集!「鎌倉殿の13人」鎌倉編



相模の武将「渋谷重国」
(早川城址:綾瀬市)

編集:yoritomo-japan.com







早川城址


 渋谷重国の居城であった早川城址は、現在、城山公園として整備されている。

 渋谷氏は、桓武平氏秩父氏の一族で、重国は渋谷荘を与えられ、渋谷庄司と称し、綾瀬から大和、藤沢一体を統治した(参考:鶴舞伝説と公所浅間神社)。

 『吾妻鏡』によると、1159年(平治元年)、平治の乱源義朝に味方して敗れた近江源氏の佐々木秀義が、子らを連れて奥州平泉藤原秀衡を頼るため渋谷荘を通りかかったときに、それを引き止め、以後、約20年間にわたり庇護したのだという。

 その間、子の定綱経高盛綱高綱(佐々木四兄弟)は、伊豆に流されていた源頼朝に仕えるようになり、1180年(治承4年)、頼朝挙兵すると馳せ参じている。

 このとき重国は、平家方の大庭景親に付いていたが、のちに頼朝に臣従して御家人に列せられている。

 リンクボタン渋谷重国と佐々木四兄弟


桓武天皇
第50代天皇

平将恒
(桓武天王6世)

秩父武基

秩父武綱
小机基家

河崎重家

渋谷重国

金王丸?


 早川城址周辺の台地は古代より人々の居住の地として村が造られ、宮久保遺跡からは733年(天平5年)銘の木簡が発見されている。







〜渋谷重国と全成(阿野全成)〜

 『吾妻鏡』によれば、重国は石橋山の戦い後、定綱盛綱高綱の3人が渋谷館へ連れ帰ってきた阿野全成を匿った。

 全成は、源頼朝の異母弟で、義経の同母兄。

 平治の乱で父義朝が敗れると醍醐寺に預けられていたが、兄の挙兵を聞いて東国に下ってきていた。

 間もなく、全成鷺沼の旅館頼朝と対面し、供に鎌倉入りを果たしている。


阿野全成の墓
沼津・大泉寺
リンクボタン大泉寺
(沼津市)
鷺沼城址
鷺沼城址
リンクボタン鷺沼の旅館
(習志野市)


リンクボタン頼朝の兄弟たち

リンクボタン阿野全成の誅殺


 阿野全成は、北条政子の妹保子(阿波局)を妻とし、頼朝の側近として影の活躍をするが、二代将軍頼家への謀反の疑いで捕らえられ討たれた(1203年)。



〜渋谷金王丸〜

 1159年(平治元年)、平治の乱で敗れた源義朝は、わずか八騎で東国へ逃れようとする。

 その中に渋谷重国の子金王丸が含まれていた(重国の子か弟という説があるが定かではない。)。

 尾張国野間の長田忠致を頼った義朝は、忠致の裏切りに遭い殺されてしまう。

 金王丸はその場を脱出し、京へ引き返し、常盤御前に義朝の死を伝え、出家したのだという。

 出家した金王丸が、のちに義経を襲撃して殺された土佐坊昌俊であるとする説もあるが定かではない。

金王八幡宮
リンクボタン金王八幡宮
(東京:渋谷区)
土佐坊昌俊邸跡
リンクボタン土佐坊昌俊邸跡
(鎌倉市)

綾瀬市・長泉寺
リンクボタン長泉寺
(綾瀬市)
源義朝湯殿
リンクボタン義朝の湯殿跡
(愛知県美浜町)


リンクボタン土佐坊昌俊の義経襲撃



〜佐々木四兄弟〜

 佐々木四兄弟(定綱経高盛綱高綱)は、平治の乱後、渋谷重国に匿われた近江源氏・佐々木秀義の子。

 1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵に従い、伊豆国目代の山木兼隆を襲撃した。

 定綱経高高綱は兼隆の後見人堤信遠を討ち取り、このとき経高の放った矢が頼朝と平氏との戦いの一番矢となった。

 そして、兼隆を討ち取ったのは、盛綱加藤景廉だった。


盛綱が勧請
小動神社
リンクボタン小動神社
(鎌倉市)
高綱と景季先陣争い
宇治川先陣碑
リンクボタン宇治川先陣の碑
(宇治市)

高綱館址
鳥山八幡宮
リンクボタン鳥山八幡宮
(横浜市)
高綱四男信綱の梵鐘
星谷寺
リンクボタン星谷寺
(座間市)


リンクボタン渋谷重国と佐々木四兄弟

リンクボタン宇治川の先陣争い






東郷氏祖発祥地碑
東郷氏祖発祥地碑

 早川城址の一角の物見塚の上に、「東郷氏祖発祥地碑」が建てられている。

 渋谷氏は、承久の乱での活躍により薩摩に領地を得た。

 その一族の一つが日露戦争で連合艦隊を率いた東郷平八郎を生んだといわれている。



早川城址
早川城址

海老名駅からバス

綾瀬市役所から徒歩10分






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