鎌倉手帳(寺社散策)

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金王八幡宮
(東京都渋谷区)

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金王八幡宮


 金王八幡宮(こんのうはちまんぐう)は、1092年(寛治6年)、河崎基家が、前九年の役の武功によって与えられた武蔵国豊島郡谷盛庄に創建した神社。

 基家の子重家が堀川院より渋谷の苗字を賜り、この地に館を構えたことにより渋谷氏の氏神として尊崇されてきた。

 社名になっている金王丸は重家の子と伝えられ、1159年(平治元年)の「平治の乱」では源義朝に従い、義朝平清盛に敗れて落ちのびる際も行動を共にしていたという。

 また、1185年(文治元年)、源頼朝の命により源義経を襲撃した土佐坊昌俊は金王丸のことだという。

 境内の金王桜は、一重と八重が混じって咲くもので、頼朝が金王丸を偲び植えたのだと伝えられている。


=祭神=

応神天皇





〜河崎氏は秩父一族〜

秩父氏館跡
リンクボタン秩父氏館跡
(秩父市)

 金王八幡宮を創建した河崎基家は、武蔵国秩父郡吉田郷を本拠とした秩父氏の一族。

 父は平(秩父)武綱。

 基家は武蔵国河崎荘(川崎市)や小机郷(横浜市港北区)などを本領とし、後三年の役の功によりや武蔵国谷盛荘を与えられたのだという。

 後に基家の子重家は、相模国渋谷荘(藤沢市・綾瀬市)に移住して渋谷氏を称している。

 源頼朝挙兵に参陣して活躍した佐々木四兄弟を庇護していたという渋谷重国は重家の子。





〜渋谷という地名〜

 渋谷の地名の由来については多説あるようだが・・・

 河崎重家が京都の御所に侵入した賊・渋谷権介盛国を捕らえたことで、堀川院より渋谷の苗字を賜った。

 そのため、重家の領地だった谷盛庄が「渋谷」と呼ばれるようになったというのも一つの説らしい。









〜渋谷金王丸常光〜

 金王丸(渋谷常光)は、子のなかった渋谷重家が八幡宮に祈願して誕生したと伝えられる(誕生:1141年(永治元年)8月15日)。

 金王丸は、1156年(保元元年)の保元の乱源義朝に従い、1159年(平治元年)の「平治の乱」でも義朝に従った。

 平治の乱で義朝が平清盛に敗れ、尾張国で暗殺されると、京の常盤御前に義朝の死を知らせ、その後出家して土佐坊昌俊と名乗ったのだという。

 1185年(文治元年)10月17日、源頼朝の命により、京都の源義経堀川館を襲撃して失敗。

 鞍馬山に逃げ込んだが、捕らえられ、10月26日、六条河原で斬首された。



〜渋谷八幡宮から金王八幡宮に。〜

金王八幡宮
金王丸の御影堂

 御影堂には、「保元の乱」の出陣の際に、母のために彫ったという自らの木像が安置され、金王丸が所持していたという「毒蛇長太刀」も納められている。

 「金王八幡宮」は、「渋谷八幡宮」という名称だったが、金王丸の名声によって社名を改めたのだと伝えられている。 


リンクボタン源義朝を暗殺した長田忠致

リンクボタン常盤御前に源義朝の死を知らせた金王丸

リンクボタン土佐坊昌俊の義経襲撃





金王桜
リンクボタン金王桜

 源頼朝が鎌倉の亀ヶ谷館(壽福寺)から移植したと伝えられている桜。





〜義経襲撃の地〜

六条堀川館
リンクボタン六条堀川館跡
(左女牛井之跡)
若宮八幡宮:六条堀川館
リンクボタン若宮八幡宮社
(六条堀川館跡)


〜金王丸ゆかりの地〜


土佐坊昌俊邸跡
リンクボタン土佐坊昌俊邸跡
(鎌倉市)
渋谷重国の居城
早川城址
リンクボタン早川城址
(綾瀬市)

渋谷氏の菩提寺
綾瀬市・長泉寺
リンクボタン長泉寺
(綾瀬市)
源義朝最期の地
源義朝湯殿
リンクボタン義朝の湯殿跡
(愛知県美浜町)









金王八幡宮
金王八幡宮

東京都渋谷区渋谷3丁目5番12号

渋谷駅東口から徒歩5分



金王八幡宮
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