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常盤御前

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常盤御前


 常盤御前(ときわごぜん)は、近衛天皇の中宮・藤原呈子に仕えていたといわれる絶世の美女。

 仕えるに当たっては、千人の美女のうちから選び抜かれたのだと伝えられている。

 後に源義朝の側室となって、阿野全成(今若)、源義円(乙若)、源義経(牛若)を産んだ。

 ※義朝の正室は由良御前


常徳寺
リンク常徳寺
光念寺
リンクボタン光念寺

 常徳寺は安産祈願のために参ったという寺。

 光念寺は守り本尊「腹帯地蔵」を安置する寺院。


常槃井
リンクボタン常槃井

 常槃井は、常盤御前が化粧のために使用した井戸と伝えられている。








 1159年(平治元年)12月、平治の乱が勃発。

 義朝平清盛に敗れたことにより、常盤御前と3人の子は、大和国へと逃れた。

 しかし、都に残った常盤御前の母が捕えられてしまう。

 母を助けるか、3人の子を落ち延びさせるのか・・・

 悩んだ末、清盛の下へ自首することを決めた常盤は、1160年(永暦元年)2月、雪の降る中を都へと戻って行ったのだという。

 清盛のもとへ出頭した常盤御前。

  ドラマ等で知られた話では・・・

 3人の子を救うため、清盛の妾になったともいわれるが真偽は不明。

 いずれにしても、三人の子は救われた。

 義朝の嫡男・頼朝が助命されているので、当然のことだったのかもしれない。


清水寺子安塔
リンクボタン子安塔
(清水寺)
宝樹寺
リンクボタン宝樹寺

 伝説によれば、大和国へと逃れる前、常盤御前は、清水寺の千手観音(子安塔)に3人の子の無事を祈願したのだと伝えられている。

 宝樹寺の薬師如来像は、京に戻った常盤御前と3人の子を救ったのだと伝えられている。


リンクボタン常盤御前に源義朝の死を知らせた金王丸





醍醐寺
リンクボタン醍醐寺
園城寺
リンクボタン園城寺


 助命された3人の子は・・・

 今若(全成)は醍醐寺で出家、 乙若(義円)は園城寺で出家。

 そして、幼かった牛若(義経)は、11歳になってから鞍馬寺に預けられ、15歳のときに藤原秀衡を頼って奥州平泉へと下っている。

 その間、常盤御前は一条長成と再婚。

 のちに頼朝と対面した義経は「継父一条長成の世話によって、出家をして、鞍馬に登った」と語っている。


鞍馬寺
リンクボタン鞍馬寺





 時は流れ・・・

 1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵。

 全成義円義経も頼朝の指揮下に入る。

 全成は、1180年(治承4年)11月19日、武蔵国長尾寺を与えられ、頼朝の妻・北条政子の妹と結婚。

 その後も頼朝に仕えた。

 義円は、1181年(治承5年)4月25日、墨俣川の戦いで討死。

 義経は、源平の戦いで活躍したが、無断任官等によって頼朝と対立するようになり、やがて、頼朝から追われる身となってしまう。

 『吾妻鏡』には、1186年(文治2年)6月6日、常盤御前が一条河崎観音堂の辺りで捕えられたことが記されている。

 この『吾妻鏡』の記述を最後に常盤御前の消息は不明。


 リンクボタン義経の不義を訴える景時の書状

 リンクボタン義経の無断任官

 桜源義経と源行家の謀反


延暦寺
リンクボタン比叡山
興福寺
リンクボタン興福寺

 文治2年頃の義経は、比叡山の僧兵や興福寺の聖弘に匿われていたという記録が『吾妻鏡』にある。


リンクボタン源義経を匿った比叡山の僧兵

リンクボタン源義経を匿った興福寺と鎌倉に呼び出された聖弘





源光寺
リンク源光寺

 常盤御前は、源光寺のある常盤の地で生まれ、晩年には生地に戻って庵を結び余生を送ったのだと伝えられている。







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