|
『吾妻鏡』によると・・・ 壇ノ浦の戦い後の4月21日、鎌倉の源頼朝のもとに梶原景時からの伝令が到着。 景時の書状には、合戦の次第と源義経の不義が書かれていた。 義経の不義についての内容は、 「義経殿の勝利は、頼朝様が御家人を貸し与えたからこそ成しえたもの。 義経殿は自分一人の手柄だと思い込んでいますが、大勢が力を合わせたから勝てたのです。 多くの者は、義経殿のために戦ったのではなく、ただ頼朝様への忠義を尽くすために、勲功を上げようと励んできました。 にもかかわらず、平家を滅ぼした後の義経殿は、態度が大きくなりました。 義経殿に従っている者も本心からではありません。 景時が、頼朝様の意に反した行動を諌めると、それが仇となって処刑されそうになります。 戦いが終わった今、そばに仕える意味もないので、早く許可をいただき関東へ戻りたいと思っております。 侍所の別当(長官)の和田義盛と、所司(次官)の梶原景時は、それぞれ範頼殿と義経殿に付けられました。 範頼殿は千葉常胤や和田義盛と相談して事に当たりましたが、義経殿は自分一人の考えで行動し、頼朝様のお考えを無視します。 景時に限らず多くの者が恨みに思っています」 というもの。 これに対して頼朝は、5月4日、景時の使者が九州へ帰る時に書状を持たせている。 その内容は・・・ 「義経を勘当したので、もう命令に従ってはならない。 ただし、京都に送られた捕虜たちの罪名が決まるまで景時をはじめとする御家人が警護をするように。 勝手に鎌倉へ帰って来ることのないように」 というものだった。 |
※ | 義経に従わぬようにとの命令書は、田代信綱にも送られている。 (参考)義経の無断任官 |
|