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源義経の無断任官
〜頼朝と義経の対立〜


編集:yoritomo-japan.com







 『吾妻鏡』によると・・・

 1184年(寿永3年)1月に木曽義仲を追討し、2月には一の谷の平家軍を敗走させる大活躍をみせた源義経

 しかし、6月5日の除目(諸官職を任命する朝廷の儀式)では、源頼朝が推薦した者の中に義経の名はなかった。

 このときの除目は、平頼盛(権大納言)・平光盛(侍従)・平保業(河内守)・一条能保(讃岐守)・源範頼(三河守)・太田広綱(駿河守)・大内義信(武蔵守)。

 頼朝は、先ずは兄である範頼を推挙して、任官を希望していた義経をあえて外したのだという(兄弟の序列を優先にした?)。

  一方、義経は、8月6日、頼朝の推挙なくして、朝廷から左衛門少尉の任官と検非違使の宣旨を受けてしまう。

 8月17日に鎌倉に届いた義経の報告は・・・

 「自分が望んでいたわけではないが、後白河法皇に当然の褒美と言われ、断ることができなかった」

 というものだった。

 その後、義経は、9月18日に従五位下へ昇進し、同月15日には昇殿を許されている。

 鎌倉御家人の賞罰は、頼朝の申請によって朝廷が行賞することとなっていた。

 『吾妻鏡』は、義経が無断任官したことで平家追討から外されたと伝えているが、近年では京都の治安維持のために義経の出陣を見合わせたという説が有力となっている。
 参考:三日平氏の乱



〜無断任官した者への命令書〜

 『吾妻鏡』によると・・・

 義経が任官されたとき、関東の御家人の多くも任官されていた。

 壇ノ浦の戦い後の1185年(元暦2年)4月15日、頼朝は許可なく朝廷の官職についた者に対し、墨俣川以東へ入ることを禁じ、これを破った者は本領を没収し斬罪に処するという命令書を発出。

 この中に義経の名はなかったが、義経の名がなければ、禁令を受けた御家人やその関係者からの反発があることは必定・・・

 これは、「義経を鎌倉政権から追放するために計算された頼朝の計画」だったともいわれている。

 命令書には、任官を受けた者に対する罵倒の言葉が書き添えられている。


兵衛尉義廉

 鎌倉殿は悪い主で木曽義仲は良い主だとして、親族らを引き連れて義仲に寝返ろうとし、「鎌倉殿に仕えていたら最後は落人となってしまうだろう」と言ったことを忘れたわけではあるまいな!
 とんでもない奴だ!

兵衛尉忠信(佐藤忠信)

 藤原秀衡の郎党が衛府に任ぜられるなど例がない。
 身の程をわきまえずにその気になっている奴め!
 鼬(イタチ)にも落ちる!

兵衛尉重経(師岡重経)

 勘当を許して本領を返してやろうとしたものを・・・
 もう返すわけにはいかないな!。

澁谷馬允(渋谷重助)

 父の重国は在国していたのに、平家に従って戦い、木曽義仲が大軍で京都へ攻め上ると義仲に従って京に留まった。
 また、義経が入京するとそれに参じた。
 その後の合戦で勇敢であったので勘当を解いて召し抱えようとしたのだが・・・
 首を切られることとなるので、上手な鍛冶屋に首に巻く鉄を作らせて巻いておけ!

小河馬允(小川氏)

 やっと勘当を許してやり、目をかけようと思い始めていたに・・・
 心根が良くない!
 何のために任官したんだ!

兵衛尉基清(後藤基清)

 目が鼠に似ている奴め、おとなしくしていればいいものを。
 任官などとんでもないことだ!

馬允有経(波多野有経)

 小者のくせに。
 木曽義仲追討で活躍したから許してやったのに・・・
 おとなしくしてればいいものを、任官するなど未曽有のことだ!

刑部丞友景(梶原朝景:景時の弟)

  シワガレ声で髪が薄い奴め、刑部のガラじゃない!

兵衛尉景貞(梶原景貞:朝景の子)

 合戦で勇敢に戦ったと聞き、大事にしようと思っていたが、任官などとんでもない事だ!

兵衛尉景高(梶原景高:景時の二男)

 人相が悪くおかしな奴が任官など誠に見苦しい!

馬允時経(中村時経)

 虚言が多く、官職が好きで、揖斐庄のことも知らない奴が、悪い馬を育てちゃうんじゃないの!

兵衛尉季綱

 勘当を許してやっているのに、無意味な任官だ!

馬允能忠(本間能忠)

 勘当を許してやっているのに、無意味な任官だ!

豊田兵衛尉(豊田義幹)

 色白で、しっかりしない顔つきの奴め!
 おとなしく仕えていればいいのに任官などしやがって!
 親父も不覚もので、何度も参陣を呼びかけたが、関東を平定してからやってきやがった!

兵衛尉政綱

 ・・・・・・

兵衛尉忠綱

 本領を少し返してやるはずだったに、叶うことはないだろう!
 おろかな奴め!

馬允有長

 ・・・・・・

右衛門尉季重(平山季重)

 ふわふわした顔しやがって、とんでもない任官だ!

左衛門尉景季(梶原景季:景時の子)

 ・・・・・・

縫殿助(山内重俊:経俊の子)

 ・・・・・・

宮内丞舒国

 大井渡では、声も出せずにいた臆病者が任官だとさ。
 見苦しい限り!

刑部丞経俊山内経俊

 官職をどう使うんだい!無益なことよ!


  他にも任官した奴らがいるが、誰が何の官職を受けたかを明らかにする必要もない。

 他の連中も京都から本国に帰ろうとなど考えぬことだ!


右衛門尉友家八田知家

兵衛尉朝政小山朝政

 この両人、鎮西へ下ったときに、京都で任官するなんて事は、鈍い馬が道草を食っているの同じだ!

 同様に関東へ戻ってくることは許されないことである!


 このような命令書を発した頼朝だが、真の目的は、義経の行動を徹底的に批判することにあったのかと・・・







〜義経に従わぬよう命じた頼朝〜
(『吾妻鏡』)

 4月29日、頼朝は西海(九州)にいる田代信綱に書状を送っている。

 その内容は、「義経には、代官として御家人をつけて西国へ行かせたが、すべてを自分の手柄と思い込み、個人的な命令をするため、恨みに思っている者が多い。

 そこで、今後は、義経の命令に従う必要はない」というもの。

 5月4日には、梶原景時にも同様の書状を送っている。

 リンクボタン義経の不義を訴える景時の書状



〜義経の誓約書〜
(『吾妻鏡』)

 5月7日、義経の郎党・亀井重清が鎌倉に到着し、大江広元に「謀反の心を持っていない旨の義経の誓約書」を提出したのだが・・・。

 範頼は、次々に伝令を送ってきて、子細を報告し、勝手な判断はしないのに対し、義経は自分勝手な行動ばかりしてきた。

 頼朝の機嫌が悪いことを知ってはじめて、このような行動に出たことで、許されるどころか、かえって怒らせてしまったのだという。



〜鎌倉へ向かった義経〜
(『吾妻鏡』)

 5月7日、義経は、壇ノ浦の戦いで捕虜とした平宗盛・清宗父子を護送するため京都を出発し、5月15日には相模国酒匂宿に到着。

 頼朝は、北条時政を向かわて宗盛父子を受け取り、小山朝光に「鎌倉に入らず、この辺りに逗留しているように」と伝えさせている。

 その翌日、一条能保の家人後藤基清の家来と、義経の郎党伊勢義盛の家来が揉め事を起こしたが、頼朝は、「義盛のような者が能保の家人と対等に争うなどとんでもない罪だ」と激怒したのだという。

 一条能保は、頼朝の姉妹坊門姫の夫で、義経と同じ日に京都を発っていたらしい。



〜許しを請う腰越状〜
(『吾妻鏡』)

 5月24日、腰越宿に逗留していた義経は、大江広元に嘆願書を送付し、頼朝の許しを得ようとしたのだが・・・

 許されることはなく、6月9日、再び平宗盛・清宗父子を護送して帰洛することに。

 同日、一の谷の戦いで捕えられ、鎌倉に送られていた平重衡も南都へ送られている。

 6月13日、頼朝は義経に分け与えていた平家没官領(平家から取上げた領地)二十四箇所を全て没収した。

 リンクボタン源義経の腰越状


鎌倉・満福寺
リンクボタン満福寺
(鎌倉市)
宗盛塚
リンクボタン宗盛塚
(野洲市)

 満福寺は、義経腰越状を書いたとされる寺。

 6月21日、平宗盛は近江国篠原宿で義経に処刑されている。



〜京都に戻った義経は・・・〜
(『吾妻鏡』)

 京都に戻った頃、壇ノ浦の戦いで捕えた平時忠の娘蕨姫を側室としたと考えられ、流罪となった時忠・時実父子を京都に置いたままにしている。

 また、叔父の源行家に近づくなど、頼朝への反逆の意志を明らかにしていく(行家には、8月4日に追討令が出されている。)。

 ところが、8月16日、山名義範(伊豆守)・大内惟義(相模守)・足利義兼(上総介)・加々美遠光(信濃守)・安田義資(越後守)などとともに、義経も伊予守に任命された。

 これは、4月の除目のときに、義経を推挙しなかった頼朝が内々に大蔵卿の高階泰経に伝えてあったことで、義経の反逆があったからといって、中止にせよとは言えなかったらしい・・・


 リンクボタン平時忠・時実父子と源義経

 リンクボタン源義経の側室・蕨姫
 
 桜源義経と源行家の謀反







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