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平時忠は、平家全盛時に「平家にあらずんば人にあらず」と言い放ったという公家。 『吾妻鏡』によると・・・ 時忠は、1185年(元暦2年)3月、壇ノ浦の戦いで捕らえられ、4月26日、平宗盛らとともに京都へ送られ、源義経邸に入った。 5月20日、能登国へ流罪と決定され、長男の時実は周防国へ流罪と決定される。 死罪を免れることができたのは、「三種の神器の鏡が無事に返ってきたのは、時忠の手柄だったから」といわれている。 (参考:壇ノ浦の戦いと三種の神器と頼朝・範頼・義経) ただ・・・ 源義経は時忠の娘(蕨姫)を側室とし、流罪が決定した時忠らを京都に置いたままにしていた。 9月2日、源頼朝に義経の動向を探るよう命じられた梶原景季は、9月12日、京都に入ると、早速、流罪となった者について話をする。 すると・・・ 9月23日、覚悟をしたのか、時忠が配所の能登国へ下向。 しかし、時実は・・・ 11月3日、義経は都落ちすることとなるが、その従者の中に時実がいた。 11月6日、義経一行は、大物浦から船出するが強風で難破。 一行はばらばらになり、時実は京都へ戻る途中で捕らえられている。 翌1186年(文治2年)正月5日、時実は鎌倉へ送られるが、何の弁明もしなかったという。 ただ、公家の罪を鎌倉が決定することはできないので、京都へ返されることとなり、正月25日、時実は上総国流罪となったのだとか。 その後、平時忠は、1189年(文治5年)2月24日、配所の能登国で死去。 同年4月15日、平時実は赦免され京都に戻っている。 |
時忠が能登へ下向した後、娘の宣子は後鳥羽天皇の典侍となったらしい。 『吾妻鏡』によると、1191年(建久2年)の賀茂祭(葵祭)には典侍として供奉している。 |
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