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結城朝光(ゆうきともみつ)は、 1168年(仁安3年)、下野国小山荘を本拠とした小山政光の子として誕生。 母は源頼朝の乳母を務めた寒河尼。 1180年(治承4年)10月2日、武蔵国隅田宿で頼朝を烏帽子親として元服し、小山七郎宗朝と名付けられた(のちに朝光と改名)。 1181年(治承5年)4月7日、頼朝の寝所警護11名のうちの人に加えられる。 1183年(寿永2年)2月28日、志田義広の反乱(野木宮合戦)を鎮めた恩賞として下総国結城郡の地頭職に任命される。 1189年(文治5年)の奥州征伐では陸奥白河荘を得た。 頼朝亡き後の1199年(正治元年)10月25日、「忠臣は二君に仕えず・・・」と発言したことで、梶原景時の讒言にあって窮地に立つが、三浦義村に相談して景時を失脚させた(梶原景時の変)。 1221年(承久3年)の承久の乱では、 武田信光・小笠原長清・小山朝長とともに東山道の大将軍として出陣。 1235年(文暦2年)5月、評定衆に加えられるが、同年閏6月3日には辞している。 1254年(建長6年)2月24日死去(87歳)。 |
野木宮合戦の恩賞として下総国結城郡を得た朝光だが、朝光自身は戦に出ていない。 当時、朝光は15歳。 『吾妻鏡』によると・・・ 1183年(寿永2年)2月27日、頼朝は志田義広が蜂起してから続けていた鶴岡八幡宮を参拝。 朝光は太刀持ち役として供奉。 頼朝が志田義広の裏切りはどうなったか心配していると、朝光は「すでに小山朝政(朝光の兄)に滅ばされているでしょう」と申し上げた。 頼朝は「この若者の言葉は、思いつきでいて言ったことではなく神のお告げに相違ない」として、朝光が言うとおりとなったら恩賞を与える約束をしたのだという。 同日、志田義広の逃亡が知らされると、2月28日には、常陸・下野・上野で志田義広に味方した者の所領が没収され、朝光は恩賞に預かった。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1189年(文治5年)6月30日、大庭景義が勅許のでない奥州征伐について源頼朝に語った日のこと。 景義は、褒美に馬を賜るが、その馬を引いてきたのが朝光だった。 朝光は、足が不自由で庭に降りることのできない景義に、手綱を投げて渡した。 その配慮に、景義は礼を述べたのだという。 |
奥州藤原氏の征伐に勅許の必要なし!〜大庭景義の逸話〜 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1195年(建久6年)3月12日、源頼朝が東大寺の大仏殿の落慶供養に参列したときの事。 僧兵と警固の武士との間で紛争が起こった。 梶原景時がそれを鎮めようとするが、その態度が傲慢無礼だとして一触即発の事態となってしまう。 頼朝は朝光に命じて事態を収拾させたが、僧兵達は朝光の態度に感心し「容貌美好、口弁分明」と称賛したのだという。 |
東大寺の僧兵に称賛された結城朝光 |
源頼朝から「朝」の字を与えられるほどに可愛がられた結城朝光。 一説によると・・・ 頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島に流されていたときに寒河尼が懐妊(寒河尼の娘とも)。 平家の追討を案じた頼朝は小山で出産させ、小山政光の四男として育てさせたのだという。 信憑性はないが、結城氏は伝統的に源氏を称し、代々の当主は「朝」を通字(とおりじ)として用いている。 |
福井城は、徳川家康の次男・結城秀康が築いた城。 秀康は結城氏十七代当主・結城晴朝の姪・江戸鶴子と結婚し、婿養子となって結城氏を継いだ。 1601年(慶長6年)、越前国北ノ庄へ移封となると福井城を築城。 慶長9年には松平に服し、結城家の家督は秀康の五男・直基が継いでいる。 |
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