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武田信光(たけだのぶみつ)は、武田信義の五男。 甲斐国八代郡石和荘を基盤としていたことから、石和五郎を称していた。 妻は新田義重の養女(源義平の娘)。 源頼朝に仕えて活躍し、同じ甲斐源氏で従兄弟の小笠原長清・信濃国の海野幸氏・望月重隆とともに弓馬四天王と称された。 1187年(文治3年)から始まった鶴岡八幡宮の放生会で流鏑馬の射手を務め、1193年(建久4年)の流鏑馬では四天王がそろって射手を務めている。 |
石和八幡宮は、信光が鶴岡八幡宮を勧請した社で、弓馬術の聖地として崇められた。 |
武田流流鏑馬は、武田信光を祖とする安芸武田氏に伝えられた弓馬術。 |
1180年(治承4年)、以仁王が全国の源氏に平家打倒の令旨を発すると、父信義とともに挙兵。 加藤景廉らととも駿河国の目代橘遠茂と戦い、長田忠致の子2人を討ち取り、橘遠茂を生け捕った。 |
頼朝の挙兵と甲斐源氏 |
1188年(文治4年)正月20日の二所詣や1193年(建久4年)の富士裾野の巻狩りに小笠原長清とともに随行。 1194年(建久5年)には、東大寺の大仏殿の持国天像造立の負担を命じられている。 頼朝亡き後の1200年(正治2年)、梶原景時が兄の有義に送ったという密書を発見し、幕府に申立てを行った(梶原景時の変)。 この事件以降、武田氏棟梁の地位が信光に移ったものと考えられている。 1203年(建仁3年)には、謀反を企てたとする頼朝の弟阿野全成を捕らえ、1213年(建保元年)の和田合戦では、北条義時に味方し和田義盛の追討に加わった。 1221年(承久3年)の承久の乱では、東山道の大将軍として兵を率い、乱後には安芸国守護に任じられている。 |
1193年(建久4年)、富士裾野の巻狩りに先立って催された那須野の巻狩り。 このとき頼朝は、弓馬術に優れた腹心の者22名を選んで弓箭を帯びさせた。 他の者は一万騎もいたそうだが、弓箭を帯びず勢子の役をしたのだという。 22名に選ばれたのは、 北条義時 武田信光 小笠原長清 里見義成 小山朝光 下河辺行平 三浦義連 和田義盛 千葉成胤 榛谷重朝 諏方盛澄 藤沢清親 佐々木盛綱 渋谷高重 葛西清重 望月重義 梶原景季 工藤行光 仁田忠常 狩野宗茂 宇佐美助茂 土屋義清 |
1194年(建久5年)、源頼朝は東大寺の大仏殿の虚空蔵菩薩・如意輪観音と四天王像の造立を御家人に命じている。 持国天を造立したのが武田信光。 従兄弟の小笠原長清は多聞天を造立している。 |
梶原景時・景季の最期 |
弓矢の道の習わし〜武田信光と小笠原長清〜 北条政子の演説 〜承久の乱:慈光寺本『承久記』〜 |
藍沢五卿神社は、承久の乱で「合戦の張本」とされ駿河国藍沢原で処刑された葉室宗行(藤原宗行)を祀るために創建された社。 のちに、葉室光親・源有雅・藤原範茂・一条信能が合祀されている。 武田信光は、葉室光親を駿河国で処刑している。 合戦張本の公卿 |
城南宮は、流鏑馬発祥の地として知られる。 後鳥羽上皇は、城南流鏑馬のためと称して兵を集め、北条義時追討の院宣を発した(承久の乱)。 |
伊豆の国市の信光寺は武田信光が建てた寺。 修禅寺に流されていた源頼家の監視役だったのだとか。 |
伊豆の国市の光照寺に伝えられる病相の面は、漆にかぶれた源頼家の容貌を刻んだもの。 北条政子が作らせたものと伝えられ、信光がこの面を鎌倉へ運ぶ使者だったのだという・・・ |
のちの戦国大名で無敵と呼ばれた騎馬軍団を率いた武田信玄は、甲斐武田家19代当主。 |
武田八幡宮 (韮崎市) |
武田神社 (甲府市) |
武田八幡宮は、甲斐武田家の氏神。 信光の父武田信義はここで元服したのだという。 1519年(永正16年)、甲斐武田家18代当主の武田信虎(信玄の父)は、館を石和(川田)から躑躅ヶ崎に移して甲府を開いた。 武田神社は躑躅ヶ崎館の跡地に建てられた武田信玄を祀る社。 |
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