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信 光 寺
静岡県伊豆の国市

編集:yoritomo-japan.com







伊豆の国市信光寺


 信光寺(曹洞宗)は、新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の第五代当主武田信光の開基。

 寺の名は、信光の名にちなむもの。

 寺の縁起によれば、信光は、修禅寺に流されていた源頼家を見舞い、その帰路、頼家が亡くなったことを聞いて出家し、光蓮と称して頼家の菩提を弔ったのだと伝えられている。

 信光修禅寺に幽閉されていた頼家の監視役だったのだという。

 境内の出土物などから、鎌倉時代には願成就院の寺域に含まれていたと推定されている。

 本尊は十一面観音菩薩(秘仏)。



〜頼家の仮面の伝説〜

 『日本伝説叢書:伊豆の巻』によると・・・

 修禅寺に幽閉された源頼家は、北条氏が密かに漆を入れた温湯に入浴し、全身が漆によって皮膚炎となり、容貌は特に醜いものになった。

 北条氏は、事実を曲げて「たちの悪い病気」だとし、北条政子はその容貌を木に刻んで鎌倉へ持ってくるように命じた。

 この使者となったのが武田信光だった。

 事情を知らない信光は、頼家の仮面を持って出発したが、信光寺の近くまで来て頼家が殺されたことを聞いた。

 そして、全てが北条氏の悪い計略だったことを知り、怒りのあまりに自殺してしまったのだという。

 ただ、頼家が暗殺されたのは1204年(元久元年)7月18日で、信光が死去したのは1248年(宝治2年)12月5日のこと。


伊豆の国市光照寺
リンクボタン光照寺

 近くの光照寺は、願成就院の支院だったという寺。

 信光が鎌倉へ運ぼうとしていたという源頼家の病相の面(舞楽面)が残されている。


源頼家の墓
リンクボタン源頼家の墓
(修禅寺)

 鎌倉幕府二代将軍の源頼家は、1203年(建仁3年)の比企能員の変で失脚し、修禅寺に幽閉された後、翌年、暗殺された。







〜甲斐源氏〜

 武田信光の父は甲斐武田氏の祖武田信義

 甲斐源氏は、源頼朝挙兵に呼応して挙兵。

 武田信光は、一ノ谷の戦い奥州征伐などで功をあげ、源頼朝の信頼を得ている。

 承久の乱では、東山道の大将として出陣し、安芸国を得たといわれている。

 『鎌倉大草紙』によれば、北条政子の時代に伊豆を給わり、『源平盛衰記』によれば、流鏑馬の名手で北条時頼に伝授したことのだという。


武田信光の墓
武田信光の宝篋印塔



〜弓馬と武田信光〜

 鶴岡八幡宮流鏑馬神事は、1187年(文治3年)に行われた放生会の際に奉納されたのがそのはじまりとされている。

 『吾妻鏡』によると、武田信光は、このとき二番手射手に選ばれ、1193年(建久4年)には信光とともに「弓馬四天王」と称された小笠原長清海野幸氏望月重隆がそろって射手に選ばれている。

 1241年(仁治2年)の笠懸では、伊豆入道光蓮という名で海野幸氏望月重隆とともに見聞役として登場している。


武田流流鏑馬
リンクボタン武田流流鏑馬

 武田流流鏑馬は、信光を祖とする安芸武田氏に伝えられた弓馬術。



信光寺観音石仏
西国三十三番観音石仏

 西国観音霊場の本尊の石仏で、各霊場の土が納められているのだという。


信光寺馬頭観音
馬頭観音堂







北条の里〜頼朝・時政・政子をめぐる〜

歴史めぐり源頼朝



信光寺
信光寺

静岡県伊豆の国市寺家90

伊豆箱根鉄道駿豆線伊豆長岡駅から徒歩15分



伊豆の国市・源頼朝MAP
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