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源頼朝の乳母であった比企尼の猶子となり、比企氏の家督を継いだ比企能員。 頼朝に信頼され、頼朝に長男頼家が誕生すると能員の妻が乳母に就任し、能員は乳母夫となる。 のちに娘の若狭局が頼家の側室となり、一幡を授かった。 頼朝の死後は、将軍頼家の外戚として権勢を持ったが、北条時政の謀略によって一族もろとも滅ぼされた。 |
比企能員を源頼家の乳母夫に推挙〜比企尼の逸話〜 乳母制度が生んだ権力闘争〜頼朝・頼家・実朝の乳母〜 |
源頼朝の死後、将軍頼家を擁する比企能員と実朝を将軍にして実権を握りたい北条時政との対立が激化していく。 『吾妻鏡』によると・・・ 1203年(建仁3年)7月、頼家が病気となり、ついには危篤状態となったため、8月27日、家督を日本国総守護職と関東28カ国の地頭職を一幡(頼家の嫡子)に、関西38カ国の地頭職を千幡(のちの実朝)に譲るという措置がとられた。 この措置を進めたのは、北条時政であると考えられている。 これに反発したのが頼家の乳母夫であり、一幡の外祖父である比企能員。 9月2日、娘の若狭局を通じて頼家に「北条時政を追討すべきだ」と伝えさせると、頼家は能員を呼んで、北条氏追討の許可を与えたとのだという。 源頼家の家督相続の沙汰 その密議を障子を隔てて聞いていた北条政子は、その事を北条時政に通報。 時政は大江広元の支持をとりつけ、薬師如来の供養と称して、能員を自邸(名越亭)に誘き出し、天野遠景と仁田忠常に命じて能員を暗殺した。 その一方で、政子の命を受けた北条義時らが比企邸を攻め、比企一族を滅亡させた。 頼家の嫡子・一幡も火をかけられた炎の中で最期を遂げている(一幡の死については、比企の乱後に誅殺されたという説もある。)。 『吾妻鏡』が伝える比企能員暗殺 『吾妻鏡』が伝える比企一族の最期 |
比企一族の墓 (妙本寺) |
一幡の袖塚 (妙本寺) |
妙本寺がある比企ヶ谷は、源頼朝が乳母の比企尼を迎え入れた場所。 比企能員邸もここにあった。 妙本寺は比企能員の変で助命された能員の末子・能本が建てた法華堂を前身とする寺。 境内には比企一族の供養塔や頼家の嫡子一幡の袖塚がある。 |
蛇苦止堂 (妙本寺) |
蛇苦止ノ井 (妙本寺) |
妙本寺の蛇苦止堂には、一幡の母・若狭局が祀られている。 蛇苦止ノ井は、比企能員の変で若狭局が身を投じたという井戸。 |
北条義時の正室は、源頼朝に仲を取り持ってもらった姫の前。 姫の前は比企氏滅亡後、義時と離縁して、京都で再婚したものと考えられている。 |
比企氏を滅亡させた北条時政は、大江広元と並んで鎌倉幕府の政所の別当となり、将軍・実朝の補佐を務めることとなる。 |
9月5日、頼家が奇跡的に危篤状態から回復。 事件を知った頼家は、和田義盛と仁田忠常に北条時政を討つよう命じる書状を送ったが、義盛はそれを時政に報告。 仁田忠常は、翌9月6日に時政邸に呼び出され、その帰りに加藤景廉に誅された。 義盛と忠常に頼家の書状を届けた堀親家も9月5日に捕えられ、工藤行光に誅されている。 仁田忠常の誅殺 |
毎年9月の鶴岡八幡宮例大祭で奉納される小笠原流の流鏑馬の祖小笠原長清は、子の長経が頼家に仕えていたことから処罰されている。 源頼家の近習5人 |
9月7日、北条政子の命により頼家は出家、9月15日には、実朝を征夷大将軍とする宣旨が鎌倉に到着した。 |
北条政子の配慮で出家した源頼家 兄源頼家の失脚で将軍となった源実朝 |
〜比企能員暗殺の理由は『吾妻鏡』の作り話?〜 |
『吾妻鏡』が伝える比企能員の変は、能員が時政討滅を企てたことが発端となっているようだが、実朝が将軍となった経緯や、京都の当時の様子を伝える書物からすると、時政と政子の謀略と考える事ができる・・・ |
慈円の愚管抄が伝える比企能員の変 鶴岡八幡宮の巫女の予言から始まった!〜吾妻鏡の物語と比企能員の変〜 |
三嶋大社には頼家が病気平癒を願って奉納した般若心経が伝えられている。 |
9月29日、頼家は修禅寺に幽閉された。 修善寺温泉の入口に鎮座する横瀬八幡神社は、相殿に源頼家を祀る。 |
翌年7月18日に暗殺された頼家の墓。 のちに頼家の遺児・千寿丸(三男)が泉親衡に利用され謀反を起こすが、この事件が和田合戦の引き金となっている。 |
富士の人穴探検〜源頼家と仁田忠常〜 浅間大菩薩に祟られた?〜源頼家・仁田忠常〜 |
比企能員の子時員は、比企能員の変で討死するが、妻は正法寺(岩殿観音)に落ち延び、男児を出産したのだと伝えられている。 その男児は寺で育てられて員茂を名乗り、のちに北面の武士となり、1221年(承久3年)の承久の乱では、流罪となった順徳上皇に従って佐渡に渡ったのだという。 その後、子の員長とともに比企郡中山(現在の川島町)に移り住んだのだと伝えられている。 |
兄の頼家が失脚したことで、三代将軍となることが決まった実朝は、9月10日、母の政子のもとから、北条泰時と三浦義村に警護されて時政の屋敷に移る。 乳母の阿波局も従っていた。 しかし・・・ 9月15日、阿波局が政子に「時政の後妻牧の方の不審な動静」を訴えた。 実朝に危害を加えられることを心配した政子は、北条義時・三浦義村・結城朝光を派遣して実朝を取り返し、時政には成人するまで自分のもとで育てると伝えたのだとか・・・ 時政と牧の方が娘婿の平賀朝雅擁立を企てて追放されるのは2年後だが、すでに謀反計画が進められていたのかもしれない。 |
次に北条氏の謀略によって滅ぼされる御家人は「鎌倉武士の鑑」と称された畠山重忠。 |
畠山重忠の乱に連動して起こるのが牧氏の変。 |
頼朝の子・孫:断絶した血筋 失敗だった?頼朝の鎌倉殿継承構想 源頼家の嫡子一幡と嫡子のはずだった公暁 |
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