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源頼家の近習5人

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 『吾妻鏡』によると・・・

 1199年(建久10年)4月20日、梶原景時と中原仲業が政所に張り紙をした。

 その内容は・・・

 「小笠原長経・比企宗員・比企時員・中野能成等5人を源頼家の近習として、これらの者が鎌倉の中で狼藉をはたらいたとしてもそれを許す」

 というもの。

 さらに、頼家への対面は、この5人以外は許さないという決定も。



 小笠原長経

 甲斐源氏・小笠原長清の子。

 父の長清は弓馬術礼法小笠原流の祖。

 通称は弥太郎。

 1203年(建仁3年)の比企能員の変で監禁された後、鎌倉を離れる。

 葉室定嗣の『葉黄記』(ようこうき)によると、1247年(宝治元年)5月9日に新日吉社(新日吉神宮)の流鏑馬の神事を務めている。

 同年11月5日死去。



 比企宗員

 比企能員の子。

 通称は三郎。

 1203年(建仁3年)の比企能員の変で討死。



 比企時員

 比企能員の子。

 通称は弥四郎。

 1203年(建仁3年)の比企能員の変で討死。



 中野能成

 信濃国中野郷を本拠とした藤原助弘の子。

 通称は五郎。

 『吾妻鏡』では比企能員の変後に所領を没収されたようだが、『市河文書』によると、直後に北条時政から所領を安堵されているらしい。

 時政の間諜だった可能性が・・・



 北条時連

 『吾妻鏡』には四人の名しか記されていないが、もう一人は北条時連と考えられる。

 時連は北条時政の子で、のちの北条時房

 比企能員の変後、主人の頼家は修禅寺に幽閉されるが、時房は処罰されずに済んでいる。

 中野能成と同じく北条氏の間諜としての役割をしていたのかもしれない。





〜合議制への反発か?〜

 『吾妻鏡』の記述からすると・・・

 頼家の措置は4月12日に決定された「宿老十三人の合議」に反発するものとも考えられるが、頼家が近習に与えた特権は庶民に対してのものであって、宿老に対してのものではないという説がある。





〜7月には5人の名が変わる。〜

 4月に近習5人の特権を定めた頼家だが、7月26日には、小笠原長経・比企宗員・和田朝盛・中野能成・細野四郎の5人以外は、御所の北側の建物には来てはならないと定めている。

 その建物とは、中野能成に命じて奪った安達景盛の妾を住まわせた所。

 リンクボタン安達景盛の妾を奪った源頼家



 和田朝盛

 和田義盛の孫。

 1213年(建保元年)の和田合戦で一族は滅びてしまうが、朝盛は生き延び、1221年(承久3年)の承久の乱では後鳥羽上皇に付いた。

 承久の乱後の動向は不明。



 細野四郎

 詳細は不明。



 4月と7月では、頼家の近習5人は変わっているようが、比企時員や北条時連が近習から外されたということではない。

 比企時員は頼家が飼っている猟犬の世話を命じられているし、北条時連は度々蹴鞠に参加している。









源頼家像
リンクボタン源頼家



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