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牧の方(まきのかた)は、鎌倉幕府の初代執権・北条時政の継室(後妻)。 北条政子・北条義時の継母。 慈円の『愚管抄』によると駿河国大岡牧の豪族・牧宗親の娘。 『吾妻鏡』によると妹。 生没年は不詳。 父とも兄ともいわれる牧宗親は、平清盛の継母で源頼朝の助命を嘆願した池禅尼の弟という説がある・・・ |
1182年(寿永2年)3月、北条政子が懐妊すると源頼朝は伊豆の流人時代から寵愛していた亀の前を鎌倉に呼び寄せて小坪の小中太光家の屋敷に住まわせ、さらに飯島の伏見広綱の屋敷に移して通っていた。 8月12日、政子は産所の比企邸で男子(のちの頼家)を出産し、10月17日に御所へ戻ったのだが・・・ 牧の方から頼朝の浮気を伝えられ、11月10日、牧宗親に命じて広綱の屋敷を破壊。 政子の仕打ちに怒った頼朝は、翌日、宗親の髻(もとどり)を切ってしまう。 その仕打ちに怒った北条時政は、14日、伊豆へ引きあげてしまったのだとか・・・。 浮気発覚・政子激怒 源頼朝に褒められた義時 |
1205年(元久2年)6月の畠山重忠の乱は、平賀朝雅が畠山重忠・重保父子のことを牧の方に讒言したことから起こったと伝えられている。 平賀朝雅は、牧の方の娘婿で京都守護を務めていたが、前年11月4日、将軍源実朝の妻となる坊門姫を迎えるために上洛した畠山重保と口論となっていた。 その翌日には、重保とともに上洛していた北条政範が急死している(16歳)。 政範は、北条時政と牧の方の間に生まれた子。 時政は、政範を嫡子と考えていたという説がある。 |
畠山重忠の乱から2か月後の閏7月19日、牧の方による「源実朝を亡きものにして娘婿の平賀朝雅を将軍に据えよう」という企てが発覚。 この日のうちに北条時政が出家し、翌日、伊豆国北条郷へ下向。 26日には、京都で朝雅が討たれた。 牧の方は・・・ 時政とともに伊豆へ追放されたようだが、朝雅に嫁いだ娘が公家の藤原国通と再婚すると、娘夫婦を頼って京都で暮らしたのだとか・・・。 |
北条政子の妹阿波局は、1203年(建仁3年)の比企能員の変後、牧の方の不審な動静を訴えていた。 阿波局は源実朝の乳母。 |
宇都宮頼綱は、宇都宮氏の五代当主。 牧の方の娘を妻としていたが、牧の方の陰謀後の8月7日、謀反を疑われてしまう。 小山朝政や結城朝光の計らいもあって罪を問われなかった頼綱は、出家して熊谷直実の勧めで法然に帰依している。 |
伊豆国に追放となった時政は、1215年(建保3年)1月6日、北条の地で死去。 墓所は願成就院。 藤原定家の『明月記』によると、1227年(嘉禄3年)1月23日、牧の方は、娘が再嫁した藤原国通の有栖川亭で時政の十三回忌を営んでいる。 |
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