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平賀朝雅(ひらがともまさ)は、新羅三郎義光を祖とする源氏。 源義朝・源頼朝に仕えた平賀義信の次男。 北条時政とその後妻牧の方の娘を正妻とする。 |
朝雅の母は、頼朝の乳母を務めた比企尼の三女。 伊東祐親の子祐清の妻となったのち、平賀義信の妻となり朝雅を産んだ(朝雅の生誕年は不明)。 源頼家の乳母を務め、北条政子が源実朝を懐妊したときには腹帯を持参した。 1202年(建仁2年)死去。 3月14日、頼家と政子が永福寺で追善供養を行っている。 |
1203年(建仁3年)9月2日、北条時政が比企能員を暗殺し、北条義時らが比企邸を襲撃して比企氏を滅亡させた。 朝雅は、比企・北条双方と縁戚関係にあったが、北条に付いて義時とともに比企邸を攻めている。 10月3日、政変による動揺に乗した謀反を鎮圧するため、京都守護として上洛。 |
1204年(元久元年)4月12日、伊賀・伊勢の平家残党の反乱を鎮圧。 |
1204年(元久元年)10月14日、、三代将軍源実朝の妻となる坊門信清の息女を迎えるため、北条政範・結城朝光・千葉常秀・畠山重保らが上洛。 11月4日、朝雅邸で催された酒宴の席で、朝雅と重保が口論となるが、集まっていた者がなだめたことで、その場は収まっている。 その翌日には、北条政範(時政と牧の方の子)が死去。 |
六角堂(頂法寺)は、源頼朝も参詣したという観音霊場。 朝雅邸は六角堂付近にあったのだという。 |
1205年(元久2年)6月22日、北条時政の謀略により畠山重忠・重保父子が滅ぼされる。 この事件は、朝雅が重保との口論を牧の方に訴え、牧の方が時政に畠山父子の謀反を讒言したことが原因といわれる。 ただ、時政と重忠には、もともと武蔵国の支配をめぐる対立があった。 武蔵国留守所惣検校職と畠山重忠 |
畠山重忠の乱から間もない閏7月19日、牧の方による将軍源実朝を亡きものにして朝雅を将軍に据えようとする企てが発覚。 この日のうちに北条時政は出家し、翌日、伊豆国へ下向。 閏7月26日、朝雅は京都で誅殺されている。 |
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