鎌倉手帳(寺社散策)

徳川氏発祥の地 松平氏発祥の地
家康生誕地 東照宮

徳川家康



武蔵国留守所惣検校職

畠山重忠

編集:yoritomo-japan.com








畠山重忠
リンクボタン畠山重忠像
(深谷市:畠山重忠公史跡公園)



 『吾妻鏡』によると・・・

 1180年(治承4年)8月26日、三浦氏の本拠衣笠城を攻めた畠山重忠河越重頼に協力を要請。

 その理由は、重頼が重忠と同じ秩父氏の一族ということもあるが、重頼が武蔵国武士団の支配権を持つ「武蔵国留守所惣(総)検校職」を継承していたからと考えられる。

 『吾妻鏡』には、河越重頼とともに秩父氏一族の中山重実・江戸重長や村山党の武士団が衣笠城に攻めかかったと記されている。


 参考:衣笠合戦



〜秩父氏と
武蔵国留守所惣検校〜


 秩父氏は平良文を祖とする桓武平氏。

 平武基が秩父別当(国衙の別当)を称し、孫の重綱は「武蔵国留守所惣検校職」に補任された。

 「留守所」とは国司不在の現地政庁(国衙)のこと。

 武蔵国の国衙(国府)は現在の府中市にあったとされる。

 「検校」とは監督者のこと。

 国衙には、支配のための税所・田所などといった「所」があって、それらの「所」を監督するのが「惣検校職」。

 「惣検校職」には監督権に加えて国内武士団の統率権・動員権が加わっていくようになる。


秩父氏館跡
リンクボタン秩父氏館跡
(秩父市)



〜河越氏が承継した惣検校職〜

 重綱の家督は次男重隆が継ぐことになるが・・・

 当時の関東は、南で鎌倉を本拠とした源義朝が勢力を伸ばし、それに対抗するため源義賢が上野国多胡を本拠としていた。

 重隆は、惣検校職の継承をめぐって対立していた甥の重能への対処や、隣国上野国の足利氏・新田氏に対抗するため、義賢に娘を嫁がせ武蔵国の大蔵館に迎えるが・・・

 1155年(久寿2年)、義朝の子義平と結んだ甥の重能大蔵館を襲撃され討死。

 本拠地を失った重隆の嫡男能隆と孫の重頼は、河越を拠点として河越氏を名乗るようになる。

 そして、「武蔵国留守所惣検校職」は河越重頼が継承することになったが・・・


河越館跡
リンクボタン河越館跡
(川越市)



〜畠山重忠が惣検校職を継承〜

 1185年(文治元年)11月12日、河越重頼源義経の舅という理由から領地を没収され、嫡男の重房とともに誅殺された。

 これにより、「武蔵国留守所惣検校職」は畠山重忠が継承することとなる。

 『吾妻鏡』によると、1193年(建久4年)2月9日、源頼朝は武蔵国で丹党と児玉党が対立した際、重忠にその鎮圧を命じている。

 当時は、平賀義信が国守に任官されていたが、国内武士団を掌握するだけの力がないため、「惣検校職」の統率権を発動させたものと考えられている。


菅谷館跡
リンクボタン菅谷館跡
(嵐山町)







〜武蔵国支配したい時政と
「惣検校職」重忠の対立〜


 頼朝亡き後の武蔵国は、二代将軍頼家の乳母夫比企能員が支配しつつあったが、1203年(建仁3年)9月2日、能員は北条時政に暗殺され、比企一族も滅ぼされた(比企能員の変)。

 『吾妻鏡』によると、幕府の実権を握った時政は9月10日、御家人に対して所領を元のとおり認めるという文書を発行。

 10月3日、娘婿で武蔵守の平賀朝雅を京都守護として上洛させると、自らは武蔵の国務を代行。

 10月27日には、和田義盛の奉行により、武蔵国の武士団に対して時政に背くことのないように命が下されている。

 ただ、武蔵国武士団の統率権・動員権は「惣検校職」の畠山重忠にあることに変わりはなかった。

 『明月記』によると、1204年(建仁4年)1月28日、都では「時政が重忠と戦って敗れ、山中に逃れた」という北条と畠山の対立を物語る風聞が流れたのだという。

 『吾妻鏡』によると、同年11月、重忠の子重保は源実朝の正室となる坊門姫を向かい入れるため上洛、その際平賀朝雅と口論となっているが、これも北条と畠山の対立が背景にあった。

 こうした中、武蔵国を完全な形で支配下に置きたい時政は、重忠の排除へと動き出すことになる。

 1205年(元久2年)6月22日、時政重忠に謀反の疑いがあるとして子の義時らを出陣させ、騙されて本拠の菅谷館から鎌倉に向かっていた重忠を二俣川で討ち取った。

 畠山重忠の乱と呼ばれるこの事件は、時政の後妻牧の方の讒言から始まったともいわれるが、そんな感情論ではなく、もとからあった武蔵国をめぐる時政と重忠の対立が原因と考えられる。


 その後、時政は牧の方とともに平賀朝雅を将軍に据えようと企てて政子義時に追放され、朝雅も誅殺されている(牧氏の変)。


 そして、1207年(建永2年)正月14日、武蔵国守には義時の弟時房が就任。

 「惣検校職」は置かれずに武蔵国は北条氏の支配下となった。

 『吾妻鏡』によると、1226年(嘉祿2年)4月10日、河越重員が「武蔵国留守所惣検校職」に補任されるが、以前のような権限はなかったようである。

 この措置は、三代執権北条泰時が当主の重時ではなく弟の重員に惣検校職を与えることで河越氏の勢力の分断を図ったのだと考えられている。



比企能員の変

畠山重忠の乱


畠山重忠

初代執権北条時政










2022年のNHK大河ドラマは・・・
北条義時!

鎌倉殿の13人

二代執権北条義時

宿老13人の合議制


歴史めぐり源頼朝





鎌倉:寺社・史跡巡り


鎌倉手帳
(鎌倉情報トップ)


徳川家康


60年に一度の祭礼
円覚寺洪鐘祭
源頼朝も祀る!
日光東照宮


徳川氏発祥の地 松平氏発祥の地
家康生誕地 東照宮