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河越重頼は、武蔵国河越荘を本拠とした武将。 河越氏は、坂東八平氏の一つで「武蔵国留守所惣検校職」を相伝した秩父氏の出で、重頼の祖父重隆の頃に河越に進出して河越氏を名乗ったのだという。 重頼は、源頼朝の乳母を務めた比企尼の次女河越尼を妻とし、伊豆国の蛭ヶ小島に流されていた頼朝を援助したのだと伝えられている。 |
※ | 比企尼の娘は安達盛長・伊東祐清(祐親の子)にも嫁いでいる。 |
1180年(治承4年)8月17日、源頼朝が伊豆国で挙兵。 その直後の8月27日、重頼は同族の畠山重忠の要請で、江戸重長とともに三浦氏の衣笠城を攻めて、頼朝が頼りとしていた総帥の三浦義明を討ち取った。 しかし、石橋山での敗戦後、安房に渡って再起した頼朝が武蔵国に入ると、10月4日、畠山重忠・江戸重長とともに参陣。 1182年(寿永元年)8月12日、頼朝に嫡男の頼家が誕生すると、重頼の妻が乳母に任命され、御乳付(おちつけ:初めて乳を与える儀式)を行っている。 1184年(寿永3年)1月20日、源範頼・源義経を大将とする木曽義仲討伐で入京し、長男の重房・佐々木高綱・畠山重忠・渋谷重国・梶原景季らとともに後白河法皇が幽閉されている六条殿へ駆けつけ、仙洞御所の護衛にあたった。 同年9月、頼朝の命により娘(郷御前)を義経の妻とする。 しかし・・・ 1185年(文治元年)、頼朝と義経が対立すると、11月12日、義経の舅という理由から領地を没収され、嫡男の重房とともに誅殺された。 重頼が誅殺されたことで、重頼が就いていた「武蔵国留守所惣検校職」は畠山重忠に継承されている。 |
河越館跡 |
日枝神社 |
河越館は、重頼の祖父重隆、あるいは父の能隆が築城したと考えられている上戸にある館跡。 館跡の西にある日枝神社は、河越氏が京都東山の新日吉山王社を勧請した社で、河越荘の総鎮守だった。 |
河越館跡の一角にある常楽寺には、重頼とその娘郷御前・源義経の供養塔が建てられている。 |
川越市元町2−11−1 東武東上線「川越駅東口」より東武バス神明町車庫行き「札の辻」下車、徒歩3分。 |
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