衣笠城は、衣笠合戦の折、三浦大介義明が自刃した場所。
義明は、衣笠城を築いた為通から数えて四代目。
長男義宗が早く亡くなっているため、次男の義澄が三浦を継いでいた。
義宗の子には、鎌倉幕府初代侍所別当となった和田義盛がいる。
1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵に合わせて兵を進めた三浦一族は、折からの雨によって増水した酒匂川を渡ることができず、その間に頼朝は石橋山の戦いで大敗を喫してしまった。
仕方がなく兵を引くが、帰路の由比ヶ浜で、当時まだ平家方の大庭景親に従っていた畠山重忠軍に遭遇してしまう。
三浦軍と畠山軍は、戦うつもりはなかったのだが、杉本城(鎌倉杉本寺)を守っていた和田義茂(義盛の弟)が、三浦軍が攻められていると勘違いし、畠山軍を攻めたため合戦となってしまったのだという。
辛うじて畠山軍を退けた三浦軍は衣笠城に辿り着くが、日を置いて、重忠は河越重頼・江戸重長に協力を要請して衣笠城に攻め込んだ。
重忠らに攻められたことによって、敗戦が確実となったとき、義明は義澄らに対し、逃れて頼朝に従うことを諭したという。
89歳の老齢の武将は、頼朝を信じ、頼朝のために息子らを逃し、自らは城に残り自刃した。
参考: 小坪合戦と衣笠合戦 |