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衣笠城は、三浦氏の居城。 1063年(康平6年)、源頼義に従って前九年の役に出陣した村岡平太夫為通(三浦氏の祖)が三浦の地を与えられ築城したと伝えられている。 1247年(宝治元年)の宝治合戦で、七代三浦泰村が北条時頼に敗れるまでの約180年間、三浦氏の本城だった。 |
衣笠城址碑の横には「物見岩」と呼ばれる巨岩があり、かつては、ここから周囲が見渡せたのだという。 |
相模の武将「三浦氏」 高望王流桓武平氏 |
衣笠城は、衣笠合戦の折、三浦大介義明が自刃した場所。 義明は、衣笠城を築いた為通から数えて四代目。 長男義宗が早く亡くなっているため、次男の義澄が三浦を継いでいた。 義宗の子には、鎌倉幕府初代侍所別当となった和田義盛がいる。 1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵に合わせて兵を進めた三浦一族は、折からの雨によって増水した酒匂川を渡ることができず、その間に頼朝は石橋山の戦いで大敗を喫してしまった(8月24日)。 仕方がなく兵を引くが、帰路の由比ヶ浜で、当時まだ平家方の大庭景親に従っていた畠山重忠軍に遭遇してしまう。 三浦軍と畠山軍は、戦うつもりはなかったのだが、杉本城(鎌倉杉本寺)を守っていた和田義茂(義盛の弟)が、三浦軍が攻められていると勘違いし、畠山軍を攻めたため合戦となってしまったのだという。 辛うじて畠山軍を退けた三浦軍は衣笠城に辿り着くが、日を置いて、重忠は河越重頼・江戸重長に協力を要請して衣笠城に攻め込んだ。 重忠らに攻められたことによって、敗戦が確実となったとき、義明は義澄らに対し、逃れて頼朝に従うことを諭したのだという。 89歳の老齢の武将は、頼朝を信じ、頼朝のために息子らを逃し、自らは城に残り自刃した(8月27日)。 |
※ | 『吾妻鏡』には、河越重頼・江戸重長に討ち取られたと記録されている。 |
大善寺 |
不動井戸 |
衣笠城址の大手口を上っていくと、やがて「不動井戸」と呼ばれる衣笠城の水源がある。 井戸の上には、曹洞宗大善寺があり、その裏山を登ると衣笠城址。 |
満昌寺は、1194年(建久5年)、源頼朝が三浦大介義明の追善のために建立した寺院。 |
来迎寺 |
三浦義明墓 |
鎌倉材木座の来迎寺は、源頼朝が三浦大介義明の菩提を弔うために建立した真言宗の能蔵寺が始まり。 |
それぞれの石橋山:三浦一族 それぞれの石橋山:小坪合戦と衣笠合戦 |
横須賀市衣笠町29 JR衣笠駅からバス 「衣笠城址」下車徒歩20分 |
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