鎌倉手帳(寺社散策)

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宝 治 合 戦
三浦氏の滅亡

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 鎌倉幕府で、北条氏と肩を並べていたのが三浦氏

 三浦氏は、代々源氏に仕え、1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵時にも大きな役割を果たした。

 頼朝が亡くなると・・・

 北条時政は、有力御家人の梶原景時阿野全成比企能員畠山重忠を滅ぼし、二代将軍頼家を伊豆修禅寺に幽閉して暗殺した。

 二代執権北条義時の時代には、和田義盛が滅ぼされ、三代将軍実朝が暗殺されている。

 北条氏にとって残る有力御家人は三浦氏のみとなっていた。





〜北条時頼が執権に。〜

 1242年(仁治3年)、三代執権北条泰時の没後、四代執権となったのは孫の北条経時

 経時の時代は、四代将軍藤原頼経をとりまく御家人が存在し、北条得宗家に代わって幕府の実権を握ろうとする大きな政治勢力となっていた。

 これに危機を感じた経時は、1244年(還元2年)、頼経を辞任させ、その子の頼嗣を五代将軍に据えた。

 ただ、頼経は将軍職を追われた後も鎌倉にとどまり「大殿」(おおいどの)と呼ばれ、なおも勢力を持ち続けていた。

 1246年(還元4年)3月、経時が重病に陥ると、得宗家の私的会議「深秘の御沙汰」により弟の時頼が五代執権となる。

 時頼の執権就任後間もない5月、名越光時が前将軍の頼経と結んで時頼を討とうと企てるが、時頼はその陰謀をうち破り、光時は伊豆に流され、頼経は鎌倉追放となり京都に送還されている(宮騒動)。





〜外様御家人の最大勢力〜

 当時、三浦泰村の幕府重鎮としての存在は大きかった。

 『吾妻鏡』によると、

 時頼が連署に北条重時を迎えたい旨を相談した折、

 「然るべからず」

 という泰村の一言で凍結されてしまっている(1246年(寛元4年)9月1日の条)。

 また、泰村の弟光村は、宮騒動によって京都に送還される前将軍頼経に供奉し、

 「今一度相構えて、鎌倉中に入れ奉らんと欲す」

 と話していたのだという(1246年(寛元4年)8月12日の条)。


 三浦泰村と弟の光村は、幕府草創期に活躍した三浦義村の子。





〜宝治合戦〜

 以前より前将軍藤原頼経を中心とする反執権勢力に近づくなど不穏な動きをみせていた三浦泰村を危険視していた時頼

 泰村の弟光村が、頼経をとりまく陰謀に加担していたことを捉えて、三浦氏を追い込んでいく。

 一方で、御家人の中には勢力を増した三浦氏へ反感を持つ者も多かった。

 その急先鋒が時頼の外祖父・安達景盛

 出家して高野山に籠もっていたが、鎌倉に戻り、子義景と孫泰盛に三浦氏を警戒するよう促している。

 そのような情勢の中の1247年(宝治元年)5月21日、鶴岡八幡宮の鳥居前に

 「三浦泰村は近日誅罰されるので謹慎するように」

 との立て札が・・・

 誰の仕業かは不明だが、これによって三浦泰村も武器・武具・食料を由比ヶ浜につけ、三浦邸に運ばせている。

 そして、1247年(宝治元年)6月5日、安達景盛が子の義景・孫の泰盛に命じて三浦邸を襲撃。

 これを機に時頼も三浦邸襲撃を決定したため、一気に合戦の火ぶたが切られた。

 『吾妻鏡』には、時頼が三浦邸に赴き和平交渉にあたっていたという記事が載せられているが、果たしてその真相はどうだったのだろうか・・・


三浦邸は、現在の横浜国立小学校の敷地の一部だった。



筋違橋の碑
リンクボタン筋違橋

ここが宝治合戦の戦端が開かれた場所なのだとか。





〜三浦一族、法華堂で自刃〜

 館に火をかけられた三浦泰村は、源頼朝法華堂に籠もった。

 永福寺で陣を構えていた光村は、泰村に永福寺で合流することを勧めたが、泰村に戦う気がないことを知ると法華堂へと向かったのだという。

 法華堂では毛利季光(大江広元の子)が法事讃を唱え、一族500余名が自刃。

 最期の様子は、法華堂の天井裏に潜んでいたという承仕法師によってその凄惨さが伝えられているが、中でも光村は自らの顔を刀で削り、正体をわからなくしてから自刃したのだと伝えられている。



法華堂跡
リンクボタン法華堂跡


三浦一族の墓
リンクボタン三浦一族の墓
(法華堂跡)









 後日、この合戦の追討軍によって千葉秀胤も滅ぼされている。

 秀胤は三浦義村の娘を正室とし、宮騒動で失脚して上総国に退いていた。

 泰村の妹を妻としていた毛利季光は、「兄を見捨てる事は、武士のする事ではない」と説得され三浦氏についた。

 そのため、三浦一族とともに法華堂で自刃。

 源実朝を暗殺した公暁を誅殺した長尾定景の子景茂の本拠長尾城も攻められ落城した。

 この合戦により、北条得宗家の独裁政治が確立。

 4年後の1251年(建長3年)には、了行法師の謀反宮騒動で京都に送還された頼経とその父道家が関与していたとして、五代将軍藤原頼嗣が鎌倉を追放されている。


毛利季光墓
リンクボタン毛利季光の墓
(法華堂跡)
厚木・三島神社
リンクボタン三島神社
(厚木市)

 厚木市の三島神社は、毛利氏発祥の地に建つ社。


北条泰時死後の政局と北条時頼〜宝治合戦〜(okadoのブログ)





 三浦一族の佐原氏は、この合戦には加わらず、後に三浦氏の再興を許されている。

 これが相模三浦氏だが、戦国時代に北条早雲と戦って敗れた三浦道寸(義同)は、この相模三浦氏の最後の当主となった。


新井城址
リンクボタン三浦道寸墓
(三浦市)








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